深夜、静まり返った商店街の一角に、いつの間にか現れた古びたキッチンカー。白いペンキが剥げ落ち、看板には「Midnight Meals」とだけ書かれている。客など誰一人いないはずの時間に、車内のランプだけがぼんやりと灯り、窓口には髪の長い往年のヒッピーを思わせる男が立っている。
残業に疲れ果てた佐藤陽介は、キッチンカーの前で足を止めた。もはや腹が減っているという感覚すらなかったが昼から何も食べていない。吸い寄せられたようにしてキッチンカーへ近づいた。
「いらっしゃい。なんにします?」
男は低く響く声で言った。陽介はメニューが見当たらないことに気づく。「何があるんですか?」と尋ねると、男は笑みを浮かべた。「欲しいものを言ってよ。たとえば万馬券とかね」
さして面白くないのに男は一人で笑っている。
「まぁ、代わりにちょっとばかり払ってもらうけどね。」
冗談だと思った陽介は、ふと口に出した。「じゃあ、二度と悩まない人生が欲しい。」
男は一転して真面目な顔で「承知した」と言うと、何やら鍋を取り出してカチャカチャと作業を始める。不真面目そうな格好をしているわりに手際がいい。
辺りに甘い香りが漂い、陽介の腹も思い出したように空腹をうったえる。目の前に真っ赤なスープが置かれた。見たことがない料理だが案外おいしそうだ。
「お望み通りに。」
半信半疑ながら、陽介はスープを口に運んだ。その瞬間、頭の中が真っ白になり、これまでの悩みや考えが霧のように消えていく感覚に襲われる。
だが、それは安堵ではなく、恐怖の始まりだった。
まるで頭の中で消しゴムが暴れ回っているように大切なものもどんどん消えていく。母が揚げてくれた唐揚げのおいしさ、初めてできた恋人の結衣の笑顔、職場の先輩が「お前やるじゃん」と褒めてくれたこと、全部他愛ないことなのに消された瞬間に痛烈な痛みが走る。
次第に陽介は、自分が何者かも、なぜここにいるのかも分からなくなっていった。
男はただ静かに言った。「悩みだけを消すなんて土台無理な話。悩みの根本にあるものごと消すことになる。ああ、それは説明し忘れたな。とりあえず毎度ありぃ。」
キッチンカーは静かにエンジンをかけ、どこかへ走り去っていった。
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