ちいさな物語

#000 ちいさな物語屋

「話って? どういう話でもいいのか?」さびれた観光地である。ほとんど誰も入らないような山道は電話で職員を呼ばないと開けてもらえない。廃墟などのさびれた感じがいいとそこへ向かう人は少なからずいるらしい。だからたまたまそこに鉢合わせた人がいても...
ちいさな物語

#635 世界を彩る

ある朝、目を覚ますと、妻が私のことを「アジサイ」と呼んだ。私はまじまじと彼女を見たが、その表情は至って真面目だった。外出の準備をしようと、財布から運転免許証を取り出してみると、氏名欄には確かに太いゴシック体で「アジサイ」と印刷されていた。ス...
ちいさな物語

#634 開かずの納戸

次は僕の番ですか。うーん、信じてもらえないかもしれないんですが、とりあえず話してみますね。大学生の夏休み、山奥にある母方の祖父母の家へ遊びに行ったときのことです。大学は楽しいんですが、ちょっと慌ただしすぎて――何もしない時間というか、何もし...
ちいさな物語

#633 銀色の鳥

保科の目に見える世界はいつも色で満ちていた。彼は自他共に認めるほど強い霊感と、共感覚シナスタジアの持ち主だった。しかし、彼が見るものは、世間で恐れられているようなおどろおどろしい幽霊の姿ではない。保科の霊感が捉えるのは、人々がその場所で発す...
ちいさな物語

#632 命の恩人

山の夜は、すべてを飲み込むほどに深い黒一色だった。そんな中、私は完全に山の中で道を見失っていた。スマホの画面は暗いままで使い物にならない。懐中電灯の頼りない光だけが、霧の立ち込める不気味な木々を照らしていた。雨が激しさを増し、冷たい水滴が容...
イヤな話

#631 強制的に加害者

オフィスの休憩室で、私と同僚の佐藤さん、後輩の鈴木くんが弁当を食べていた。そこに、派遣社員の三諸さんが「ちょっと聞いてください」とお弁当を持って加わってきた。彼女の顔を見た瞬間、私たちの箸がいっせいに止まった。三諸さんの左の頬に、ファンデー...
SF

#630 ハーブの種からヤバいものが生えてきた件

いやね、ちょっと聞いてほしいんですけど、そもそも僕みたいなインドア派の人間がホームセンターの園芸コーナーに足を運んだこと自体、「丁寧な暮らし」という概念に脳内OSがカーネルパニックを起こしてしまったというか、思考アルゴリズムが暴走してしまっ...
ちいさな物語

#629 宇宙を湛える器

ある朝、坂本が目を覚ますと、六畳間の真ん中に白い洗面器が置かれていた。それはいたって平凡な、どこにでも売っているプラスチック製の洗面器だった。ただ一つ奇妙だったのは、その中に澄んだ水がなみなみと張られていることだった。坂本は首を傾げながら、...
ちいさな物語

#628 時の器

遠藤はいつも、スマートウォッチの画面に表示されるデジタル時計と睨み合っていた。次のアポイントまであと十四分二十五秒、資料の修正に使えるのはわずか八分四十八秒。彼の頭の中には分刻み、いや秒刻みの予定表が広がっていた。無駄な時間は一秒たりとも存...
ちいさな物語

#627 オルゴールの夢

祖父が亡くなり、その遺品を整理していた時、僕は書斎の奥にある古い桐箱から一台のオルゴールを見つけた。箱から出した際に説明書のようなものが落ちたが、それはひどく黒ずんでいて、読むことはできなかった。オルゴールは黒ずんだ真鍮製の小さな箱のような...
ちいさな物語

#626 居酒屋の観察者

私はお酒がほとんど飲めない。カシスオレンジを一杯飲むだけで顔が真っ赤になり、二杯目には頭痛が始まるほどだ。そんな私が、毎週末になると決まって居酒屋へ足を運ぶ。目的はお酒ではなく、おいしい食事とそこに集まる人間たちの営みだ。居酒屋という場所は...