#034 赤信号の横断歩道

イヤな話

大通りに面した横断歩道。車の流れが激しく、歩行者信号が赤から変わる気配はまだない。そんな中、スーツ姿の男がさりげなく前に出た。何気ない動作のように見えるが、視線はスマホに夢中の女性に向けられている。彼女は信号が赤だと確認せず、男の動きに釣られるように一歩を踏み出した。それを確認して、男はすぐさま歩道に戻る。その様子はまるで「間違えただけ」のような様子だ。

「危ない!」
クラクションの音とともに、車が彼女の目の前で急ブレーキをかけた。顔を青ざめさせる彼女に男も驚いたような視線を向ける。

しかし、実際は違う。男にとって、これが日常の「娯楽」だった。信号が青になって歩き出すふりをし、前を見ていない歩行者を「誘導」する。その反応を見るのが彼の密かな楽しみだった。誰にも気づかれない悪意。容易に罰せられることのない罪。それが男の退屈な日々に刺激を与えるスパイスになっていた。

男は何事もなかったかのように横断歩道を歩き始めた。だが、少しして背後から強い視線を感じた。振り返ると、さっきの女性がこちらをじっと見ている。冷たいものが混じったような視線。こっちも間違えてしまったんだ。前を見てない方が悪いじゃないか。男は平然と歩き続けた。

翌朝、男はいつもの横断歩道に立った。ちょうど横断歩道ぎりぎりの場所にスマホに夢中な若い男がいる。今日はあいつだ。さりげなくその横に立ち、誘導するための一歩踏み出そうとした彼の目の前にスマホの画面が差し出された。

画面にはこれまで男が行ってきたことの短い動画が流れている。きょろきょろと辺りを見渡し、明らかにスマホに夢中な人の横を選んで横に立つ。そして自分で思っていた以上にわざとらしい動きで一歩踏み出してから戻っていた。それが倍速で何通りも再生されている。すでに記憶にないものもあった。

いや待て、記憶にないどころじゃない。そんなことはしていない。動画の中で赤信号のまま進み出てしまった若い女性が車にひかれていた。あらぬ方向へ曲がってしまった血ぬれの腕を男の方へ伸ばし恨めしげな目を向けている。

男は動揺した。そのスマホの持ち主に目を向けようとしたが、そこには誰もいなかった。もちろん先ほどまで動画を見せられていたスマホも忽然と消えている。

その瞬間、歩行者信号が青に変わった。けれど男は横断歩道を渡ることができなかった。

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