#043 午前二時のケーキ屋

ちいさな物語

「いらっしゃいませ」
 
カラン、と控えめなベルの音とともに、店の奥から店員が現れる。
 
白いエプロンをつけた女性は、穏やかに微笑んでいた。年齢不詳だがきれいな女性だ。目元には優しさがにじみ、どこか懐かしい雰囲気を醸し出している。
 
「お好きな席へどうぞ」
 
言われるがままに席に着くと、彼女はメニューを差し出した。そこには、普通のケーキ屋では見かけない名前が並んでいる。
 
『ほっとするミルフィーユ』
『思い出にひたるガトーショコラ』
『明日が少し楽しみになるチーズケーキ』
 
「……なんだか詩的な名前ですね」
 
「当店のケーキはただの甘いお菓子ではなく、眠れぬ人たちのためのものなんです」
 
彼女はにこりと微笑む。
 
「眠れない夜ってつらいでしょう? 不安だったり、寂しかったり、何か考えすぎてしまったり……眠れない理由がわからないこともありますよね」
 
確かに、俺も今夜はなぜか眠れなかった。理由は曖昧だけど、たぶん仕事でのミスだとか、ちょっとしたトラブルが重なって胸の奥がざわついていた。
 
「じゃあ……この『ほっとするミルフィーユ』をセットでください」
 
「かしこまりました。飲み物はあなたに必要なものを選ばせていただきますね」
 
彼女はカウンターに戻ると手際よく作業をはじめた。食器のふれあう音にいやされる。飲み物の準備を終えたのか、丁寧にショーウィンドウからケーキをとりだしてそっと皿にのせる。俺は思わずのどを鳴らした。なんだか気分がくさくさして夕飯すらのどを通らなかったのに、今は早くあのケーキが食べたいと熱望している。彼女は優雅な仕草でケーキと飲み物を運んできた。
 
「どうぞ。お飲み物は温かいミルクティーをご用意しました。お口に合いますように」
 
フォークでそっとミルフィーユを倒す、ナイフを入れて一口。サクサクのパイ生地と優しいカスタードの甘みが広がり、いちごの酸味がきゅっと引き締める。その味わいが消えないうちにとミルクティーをそっと口にした。ふう、と自然に息がもれる。
 
「あ……本当に、ほっとしますね」
 
「それはよかったです」
 
彼女はうれしそうに微笑んだ。
 
ようやく心に余裕ができて、店内を見渡す。今さらだが他にも客たちがいた。神経質そうな年配の男性がコーヒーを啜り、若い女性がシフォンケーキを楽しんでいる。みんな、眠れぬ夜をここで過ごしているのだろうか。
 
「毎晩、こんなふうにお店を?」
 
「ええ。眠れない人たちが、少しでも気持ちを落ち着けるように」
 
「店員さんは……眠くならないんですか?」
 
彼女は小さく首を振った。
 
「私はもう眠る必要がないのです。だからここに来る人たちが、ちゃんと眠れるようになるまで、一緒にすごしてもらおうと思って。それから、私のような目に遭う人が減ればいいなと」
 
その言葉の意味がよくわからず、問い返そうとした瞬間に強烈な眠気が訪れた。
 
「……おやすみなさい。よい夜を。またいつでもお越しください」
 
彼女の声が耳に心地よい。視界がぼやけ、ゆっくりと意識が遠のいていった。
 
――目を覚ましたのは、自分のベッドの上だった。
 
夢だったのか? でも口の中にはミルフィーユとミルクティーの甘い香りが残っていた。不思議と不快感はない。それどころかたっぷりと眠った後のような充実感で身体中が満たされていた。

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