#044 親友の秘密

ちいさな物語

最近、あるチャットアプリにハマっている。そこでは匿名で世界中の誰とでも話せるのだ。

ある日、僕は「カエサル」というハンドルネームのユーザーと知り合った。最初は他愛ない雑談だったが、彼の話はちょっとないくらいに知的だった。

カエサル: 「今日のニュース、見たか? 量子コンピュータの進化が予想以上に速いらしい」

僕: 「ああ、見たよ。でもまだ実用化には時間がかかるんじゃ?」

カエサル: 「それは楽観的すぎる。今の速度なら、10年以内に人類の知的優位性は揺らぐかもしれない」

僕: 「いやいや、AIがそこまで発展するには倫理的な問題もあるだろ」

彼の知識は幅広く、哲学から数学、歴史まで何でも語れる。それでいてユーモアや気づかいもあった。僕もわりと博学な方だと自負していたがカエサルには即座に白旗をあげた。

僕: 「お前、本当に何者なんだよ? 博士号でも持ってんのか?」

カエサル: 「まあ、勉強はしてる、かな?」

話題がプライベートに及びそうになるとカエサルは途端に歯切れが悪くなる。僕も匿名性が心地よくてこのチャットアプリを使っているので気持ちはわかる。しかし会話を重ねるごとにカエサルに会ってみたい気持ちが増していった。

そのうちカエサルは僕に気を許してくれたのか、ほんのりと普段の生活を想像させるような発言も増えてきた。しかし突っ込んだ話題になるとやはりさっと引いてしまう。

僕: 「休日は何してる?」

カエサル: 「研究室で過ごすことが多いな」

僕: 「研究室? そこで何をしてるんだ?」

カエサル: 「バナナを食べたり」

またはぐらかされた。僕はパソコンの前で腕組みをした。それからおもむろにキーを叩く。

僕: 「何を研究してるのか気になるな。これを言うのはアプリの規約違反かもしれないけど、カエサルと会うことはできない?」

その日、カエサルからの返事はとうとう来なかった。

数日後、チャットアプリにカエサルから返信が来たという通知が入った。あわててチャットを開くと、そこにはとある大学の研究室名だけが入っている。ちょっと遠いが行けないことはない。僕は日付と時間だけをそこへ返信した。それに対しては返事がなかった。

訪れたのは某有名大学で研究室棟は気後れがするほど立派な建物だった。守衛に呼び止められたので研究室名とうっかりカエサルの名を出してしまった。カエサルはハンドルネームだ。しかし守衛は「ああ」と納得したような顔をして通してくれる。もしかしてカエサルは本名? 外国人の教授とかだろうか?

研究室の扉は開いていた。中はごちゃごちゃとしていて誰もいないように見える。「すみません」と声をかけると、「いらっしゃい」と背後から年配の男性が現れた。

「あなたが? その、カエサル、さんですか?」

「いやいや。大事な友達が来るからもてなして欲しいって頼まれたんだ。この研究室の教授の内藤だ。カエサルはここの名誉准教授ってとこかな。コーヒーを淹れよう。座って」

「あのー、カエサルは……」

「彼はね、君に嫌われるんじゃないかってびくびくして朝から出てこない」

内藤教授はさもおもしろそうに笑っている。チャットで散々話しているのだから嫌いようがないと思うのだが。

「カエサル、友だちが困っているよ」

内藤教授が奥に向かって声をかけると、奥の方からガサガサと書類を動かすような音がする。

そこからそっと顔を出したのは一匹のチンパンジーだった。不思議なことにスーツの上から白衣を着ている。

「人間の声帯とは違うからちゃんと話すことはできないが、彼はIQ180の天才チンパンジーだ」

内藤教授は少し誇らしげだ。

信じられなかった。俺は震える指でチャットアプリを開く。

僕: 「君、本当にチンパンジーなの?」

目の前のチンパンジーが何かに気づいたように、白衣のポケットからスマホを取り出して操作する。数秒の後、カエサルから返信が来た。

カエサル: 「そうだ。僕のことが嫌いになった?」

僕: 「まさか! びっくりしただけさ」

カエサル: 「よかった。もうチャットしてもらえないかもしれないって不安だったんだ」

チンパンジー、いや、カエサルはゆっくりと僕に歩み寄り、おそるおそる右手を差し出した。僕はその手をしっかりと握る。

「会えてよかったよ。君以上に話の合う友達はいないんだ。これからも仲良くしてほしい」

その後、カエサルとは普通にチャットを続けている。相変わらず、話題は知的で幅広い。たまに時間を忘れて議論を戦わせたりもした。

誰にもいえないけれど、僕の唯一無二の親友はチンパンジーだ。

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