#048 パン窯の神様

ちいさな物語

あ、ちょっと不思議な話があるから聞いてくれよ。家業のパン屋を継いで5年になるけど、あの日ほど気味の悪い思いをしたことはない。

毎朝、夜明け前に仕込みを始めて、窯の火を起こすのが日課だ。うちの自慢はこの窯でじっくりと焼きあげたふっかふかの食パンで……いや、宣伝は後でいいか。その日もいつも通り、生地を丁寧に整えて窯に入れた。焼き上がるのを待つ間に、少しコーヒーでも飲もうと窯の前を離れたんだ。

戻ってきて、窯の扉を開けた瞬間、心臓が止まりそうになった。パンの中に、いや、パンそのものに、人の顔が浮き出ていたんだよ。

「うわっ!」と思わず声を上げた。その顔は、まるで怒りに満ちた表情で、じっと俺を見つめていた。焼き立てのパンの香ばしい匂いが漂っているのに、寒気が背筋を走った。

何かの見間違いだと思い込もうとしたけど、パンは明らかにもごもごと動いていたんだ。いや、本当だよ。間違いなく動いてた。

「おい、お前か? この窯を使ってるのは?」とその顔が、低い声で喋り出した。俺は声を失ったよ。パンがしゃべってるんだからな。

「そ、そうだけど……何なんだ、君は?」と震えながら問い返すと、そいつはパン生地の体をぐにゃりと動かして、窯から這い出ようとしていた。

出てこられてはかなわない。あわてて窯のふたを閉めようとしたがこれが動かないんだ。そんな俺を無視してパンは窯の入口まで出て来てまたしゃべるんだよ。

「俺はこの窯の守り神だ。この窯を使う者には、礼儀を尽くしてもらわないとな。」

守り神? 店を継いでこのかた、そんな話は一度も聞いたことがない。

「失礼があったみたいで悪かった。ちなみに礼儀っていうと……?」と聞くと、そいつはじっと俺を見上げて答えた。

「パンを焼くとき、窯に一声かけることだ。約束を守れば俺が力を貸してやる。守らなければ――」

俺はあまりのことに唖然としたけど、その要求は無理な話じゃない。だから「分かった。分かった。今度からそうする」と素直にうなずいた。

それからだ。毎朝、生地を窯に入れる前に「頼むぞ」と一声かけるようになった。そうすると不思議とパンがこれまで以上にふっくらおいしく焼き上がるようになったんだよ。それに客足が異様なまでに伸びたんだ。あんたもそれで取材に来たんだろ? おや、違うのかい?

あの日の出来事が何だったのか、未だに分からない。そうだな、寝ぼけて白昼夢を見ていたのかもしれない。だけどそれ以来、窯の前に立つたびに少しだけ背筋が伸びるようになった気がする。なにしろ窯の守り神が中にいるわけだからな。

信じるかどうかは君次第だけど、もし君がどこかで窯を使うような機会があったなら、試しに一声かけてみるといい。

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