「今日の機嫌、72点」
朝、目覚めてすぐに手首に巻いたデバイスで測る。その数値はアプリに自動で登録され公開される。それが今の社会の常識だった。
「お、今日は悪くないな」
数年前に開発された「ご機嫌メーター」。血圧計のように簡単にその日の機嫌を数値化できる画期的な発明だった。
初めは「そんなもので機嫌が測れるわけがない」と疑われたが、意外にも正確だった。ストレスやホルモンバランス、脳波などを解析し、その日の精神状態を数値化するのだ。
やがて、この数値は日常のあらゆる場面に取り入れられた。
「おはようございます、部長。本日の機嫌は?」
「85点だ。今日はいい気分だよ」
「それは素晴らしいですね!」
職場では朝礼でお互いの数値をデバイスで確認し、危険な低数値の人とはそっと距離を取る。機嫌の悪い上司に話しかけて地雷を踏むこともなくなった。それに機嫌が悪いときはあまりかまわれたくないものだ。そっとしておいてもらえるのは機嫌が低スコアだった人にも利益になる。
「今日の機嫌は78点!」
カフェのレジ横には、お客さんの機嫌を表示するディスプレイが設置され、クレームを事前に防ぐ工夫がなされた。
さらに、街中のアプリと連携することで、周囲の人々の機嫌がリアルタイムで可視化された。恋人とのデート前にはお互いの数値をチェックし、機嫌が悪ければ無理に会わない。夫婦喧嘩も事前に防げる。また、放っておけば無差別殺傷事件に発展しそうな事案が二度ほど回避された。異様にスコアの低い人の周りから通行人がさっと逃げ出したからだ。
「この発明のおかげで、世の中から無駄な衝突が減りました」
ニュース番組で専門家は誇らしげに語った。確かに、その通りだった。
しかし──問題も生まれた。
「ご機嫌98点以上の人限定のパーティー開催!」
「80点以下の方は、入店をご遠慮ください」
「低スコアの方は、機嫌を直してからお話しましょう」
機嫌の数値が、人間関係のフィルターになりはじめたのだ。
「昨日のデート、キャンセルされた……俺、機嫌65点だったからか?」
「上司、最近ずっと90点以上だけど、逆に怖い……無理してない?」
数値を上げるための「ご機嫌トレーニング」が流行し、常に自分のスコアを気にしなければならないことにストレスを感じる人も増えはじめた。
やがて、人々は本来の気持ちよりも「数値をどう見せるか」を気にするようになった。
ある日、僕は気づいた。
──「ご機嫌メーター」がなくても、僕たちはちゃんと人の機嫌を気にして生きていたんじゃないか? 最近は数値を気にするあまり、その辺りの勘が鈍ってきている気がする。
そして、少しずつ、この便利すぎる機械を使う人は減り始めた。
「今日の機嫌? そんなの自分で考えろよ」
そんな時代が、再び訪れようとしていた。06
#053 ご機嫌メーター

コメント