#056 幻のチョコレート店

ちいさな物語

「こんなところにチョコレート屋なんてあったっけ?」

仕事帰り、駅前を歩いていると、小さな店が目に留まった。深い紺色の外壁に、金色の文字で「chocolaterie Noire」と書かれている。シックで落ち着いた雰囲気があり、妙に惹かれる。

店内に足を踏み入れると、甘く濃厚なカカオの香りが広がった。ショーケースには艶やかなチョコレートが整然と並び、どれも宝石のように美しい。

「いらっしゃいませ」

奥から静かに現れたのは、白髪の年配の店主だった。

「おすすめは?」

「こちらのビターガナッシュが人気です。あと、限定のカカオ70%と紅茶のボンボンショコラも」

試しにいくつか買い、帰宅して口にすると、その美味しさに驚いた。口の中でゆっくり溶け、香りが広がる。甘さと苦さのバランスが絶妙で、ひと粒ごとに違う物語を感じるようだった。

──これは、誰かに贈りたくなる味だ。

翌日、友人へのプレゼントを買おうと再び店へ向かった。だが、そこに店はなかった。見間違えたかと思い、駅前を何度も歩き回ったが、どこにもない。昨日、確かにこの場所にあったのに。

不思議に思い、駅前の商店街で尋ねてみた。

「チョコレート屋? ここ最近、新しくできた店なんてないよ」

「でも、昨日行ったんです。『Chocolaterie Noire』っていう名前の」

「ああ……」

商店街の古株らしきおばさんが、少しだけ考え込んだ後、小さな声で言った。

「たまに現れるのよ、その店」

「たまに……現れる?」

「昔からね、何年かに一度、ふっと駅前に現れて、気づいたら消えてるのよ。私も一度だけ買えたことがあるけど、本当に美味しかったわ」

そんなことがあるのだろうか。幻のチョコレート店? それとも、ただの都市伝説?

帰宅後、インターネットで店の名前を検索した。だが、どこにも情報はなかった。SNSにも、口コミサイトにも。まるで最初から存在しなかったかのように。

もしかしたら同じ店を見て何か知っている人がいるかもしれないとSNSに今回の出来事を投稿して情報を募ってみた。

しかし翌朝、その投稿は消えていた。もちろん自分で消した覚えもないし、削除した痕跡すら残っていない。

もしかしたら、あの店は知られることを拒んでいる? 特別な条件で現れて運よく見つけた人しか買えないのか。

……それなら、おとなしく次のチャンスを待つしかない。次にあのチョコレートを味わえるのは、いつになるのだろう。

そんなことを考えながら、最後のひと粒を口に運ぶ。口の中に広がる深い甘さが、不思議な余韻を残した。ああ、待ちきれない。

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