#062 回覧板の掟

ちいさな物語

「回覧板が来たら、すぐに回してくださいね」

このマンションに引っ越してきたばかりの俺に、管理人は念を押すように言った。何度も、何度も。まるで、それが最も重要なルールであるかのように。よっぽどマナーのない人がいるんだろうかと少し不安になる。

しかし実際、住民たちは異様なほど回覧板を気にしていた。夜中でもピンポンが鳴り「回覧板届いてますか?」と確認に来るくらいだ。少しでも遅くなるとすぐに誰かが催促してくる。

住民の間では「とにかくすぐに回せ」と暗黙のルールになっているらしい。ゴミ出しとか他のルールについてはそこまでではない。なぜか回覧板のみ住民たちはどこかにとどまることに恐怖を感じているとしか思えないほどに神経をつかっていた。

昨日、俺の隣に住む中年男性・佐々木が部屋で倒れていたそうだ。救急車を呼んだが、彼はそのまま亡くなった。警察の話では、死因は心不全。しかし、住民たちは何か重大な秘密を知っていて、口をつぐんでいるようなそぶりである。

「回覧板を回さなかったからですよ」

誰かが俺の耳元でぽつりとつぶやいた。

佐々木が亡くなる前々日から、彼の部屋には回覧板があった。俺はそれを知っていた。なぜなら、彼に回覧板を渡したのは俺だったからだ。

「そんなバカな……」

気のせいにすぎないと思いたかったが、ふと立ち話をする住民たちの会話からあることを知った。佐々木が亡くなった直後、彼の部屋から回覧板が回収され、何事もなかったかのように回されていたようだった。人が亡くなっても回覧板が最優先なのか?

――そして、また次の回覧板が来ている。

俺は震えながら回覧板を開いた。中には、住民の名前と日付が並んでいる。驚いたことに、佐々木の名前はすでに消されている。

「嘘だろ……」

早すぎる。回覧板、これはこのマンションにとって、一体どういう意味を持つのか。

混乱していると、インターホンが鳴った。画面に映るのは、青ざめた顔の女性。佐々木の隣の部屋の奥さんだ。つまり今回からは俺の次に回覧板を受け取る家になる。

「すみません……早く回覧板を……」

俺は慌てて回覧板を掴み扉を開けた。

「どうぞ……」

彼女は震える手でそれを受け取ると、急いで立ち去った。まるで爆弾でも押し付けられたかのように。

──この回覧板は、絶対に滞らせてはいけない。

俺は悟った。もし次に俺の番が来たとき、すぐに回せなかったら……?

それを考えただけで、背筋が凍った。

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