その日、俺は仕事帰りに駅前の広場を通った。
いつもなら通り過ぎるだけの場所なのに、今日は何かがおかしかった。
――行列だ。
ものすごく長い行列ができている。
最初は人気のスイーツでも売っているのかと思った。でも、列に並んでいる人たちはみんなスマホをいじっていたり、ぼんやりと立っていたりするだけで、何ひとつ行列のヒントにならない。
気になって、近くの若い男に聞いてみた。
「これ、何の列ですか?」
男は首を傾げる。
「いや、俺も知らないっす。でも、みんな並んでるし、なんかいいことあるのかなと思って」
適当に並んだだけかよ、と思ったが、周りの人たちも同じような様子だった。
「とりあえず並んでみた」
「なんかすごい行列だから、つい」
「みんな並んでるし、損はないかなって」
そんな理由で列ができているらしい。
よくわからないけど、俺も試しに並んでみることにした。
並んでから30分が経過した。
進んではいる。確かに前へと進んでいる。
でも、何の列かは誰も知らない。
「もうすぐ先頭っぽいですよね」
後ろの中年男性がそう言った。
たしかに、あと10人ほどで先頭が見えそうだ。
少しドキドキする。
期待してしまう。
きっと、この行列の先には――
すごく美味しいものがある、もしくは何か限定品の販売か。
ものすごくお得なセールをやっているのかもしれない。
いや、もしかしたら、新しい体験型アトラクションの入口なのか。
何かいいことがある。そんな気がしてならない。
そしてついに、俺は先頭にたどり着いた。
そこには――何もなかった。
行列はただの行列だった。
「……え?」
俺は混乱しながら振り返った。
後ろの人々が、期待に満ちた顔で俺を見つめている。
「何があるんです?」
「いや、何もない……ただの行列だった」
「……え?」
沈黙。
「は? マジで何もないの?」
「なんだよ、時間の無駄だったじゃん!」
「誰だよ、最初に並び始めたの!」
先頭にたどり着いた人は口々に不満の声をあげていた。ただし小声だ。何だか恥ずかしくて大騒ぎできないのだろう。だから行列の後ろの人は気付けない。また新たな人が並び始めた。
何だか笑えてくる。
みんな、何かいいことがあると思い込んでいた。誰も「ここに並ぶべき理由」を知らなかったのに。
でも、並んでいる間はワクワクしていた。
「……まあ、面白い経験だったし、いいか」
そう呟くと、隣の若い男が苦笑いした。
「なんか、すごい行列だとつい並んじゃうんですよね」
「わかる。でも、次からは気をつけるわ」
そう言って、俺たちは素知らぬふりで人混みに紛れた。
しばらくして、ふと振り返ってみる。行列はまた伸びていた。
俺と同じように、「なんかいいことがあるかも」と思っているのだろう。
不思議な気持ちになりながら、俺は駅へ向かった。
この世界には、何の意味もない行列が存在するのかもしれない。
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