#085 11時43分

ちいさな物語

このマンションに引っ越してきて、一ヶ月が経つ。

仕事にも慣れ、夜は静かに過ごせるかと思っていた。だが、あることが気になっている。

——毎晩、天井から音がするのだ。

最初は気にしなかった。マンションなら生活音が響くのは仕方がない。だが、不思議なことに、その音はいつも同じ時間に鳴る。

夜の午後11時43分になると、上の階からトン、トン、トン……と、足音のようなものが聞こえてくる。

気になって管理会社に確認すると、衝撃の事実が判明した。

「え? 504号室ですか?」

「はい。僕の部屋、404号室なんですが……真上の部屋の人に夜中は少し静かにしてもらえるよう伝えてもらえませんか?」

管理会社の女性が不思議そうに首を傾げる。

「404号室の真上、つまり504号室には……誰も住んでいませんよ?」

「……え?」

「504号室はずっと空室です。内見すらないはずですが……」

そんなはずはない。俺は毎晩、確かに音を聞いている。

「いや、でも、音がするんですよ。決まって11時43分に……」

そう言うと、管理会社の女性の顔が急に曇った。

「11時43分……?」

「何か、知ってるんですか?」

「……いえ、何でもありません」

明らかに不自然な反応だった。

俺はその夜、意を決して真上の部屋へ行くことにした。

11時42分。

エレベーターで5階に上がり、504号室の前に立つ。

静まり返った廊下。確かに、この部屋には誰も住んでいないように見える。

だが——

カチリ。

時間が11時43分を指した瞬間、中から何かの気配を感じた。

トン、トン、トン……

音が鳴り始める。

俺は息を呑んだ。音は確かに、中から聞こえている。

……いや、それだけじゃない。

この音——足音じゃない。

まるで、何かが這いずるような音だった。

ドアの下の隙間から、影が見える。

誰かいる。

俺はドアノブに手をかけた。

ガチャ。

開いた。

……部屋の中は真っ暗だった。

誰もいないはずなのに、なぜドアが開く?

俺は震える手でスマホのライトをつけ、中を照らした。

——何もない。

家具も、荷物も、何一つない。

なのに。

部屋の奥に、黒い影がしゃがみこんでいた。

それはゆっくりと、こちらを向いた。

俺の体が凍りつく。

影には、顔がなかった。

……いや、顔があった場所に、ぽっかりと穴が開いていた。

穴の中から、俺を覗く“何か”がいた。

そして、その口が、動いた。

「トン、トン、トン……」

俺は悲鳴を上げ、逃げた。そのまま友人に頼み込んで泊めてもらい、依頼自分の部屋にも戻らず引っ越しを決めた。

あの音は今も毎晩鳴り続けているのだろうか。管理会社の女性の反応から、あの部屋で何かあったのは確かだろう。

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