海辺の町を訪れたのは、もう何度目だっただろうか。海岸沿い特有の潮風がまとわりつくような空気はやはり体に馴染んでいる。小さな食堂に入り、私は大好きだった“それ”を頼んだ。そう、あさりの味噌汁だ。
箸でそっと貝殻を持ち上げる。殻の内側はつるりとした白さを帯び、あさりの身が静かに横たわっている。レンゲですくい、そっと口に含む。
——味が、曖昧だ。
いや、決して味が薄いとか、まずいとかそういうことではない。あさりの風味は確かにそこに存在しているはず。それなのに違和感がある。ここもダメか。
「お客さん、どうしました?」
店主が不思議そうに私を見つめる。
「いや……あさりの味が、よくわからなくて」
「はあ?」
店主は怪訝な顔をしながら、自分でも鍋から味噌汁をすくって味見している。
「普通……だが?」
私はもう一口、慎重に味わう。——やはり、何も感じない。子供の頃のあの感動を、だ。出汁の香り、味噌のまろやかさ、それらは確かにある。けれど、あのあさりの味だけが私の舌からこぼれ落ちてゆく。
店を出て、私は浜辺を歩いた。潮騒が耳を満たす。
ふと、幼い頃の記憶が蘇る。海辺にあった祖母の家で食べたあさり汁。浜辺で拾った貝を並べて遊んだ日々。——あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
私は足元の砂を掘り返してみた。指先にあたる、小さな硬い感触。貝殻だ。
そっと拾い上げると、それはあさりの殻だった。しかし、中身はどこにもなかった。まるで今の私のようだ。
——私は、もうあのときの私とは違う。
なぜなら、私はすでにあらゆることを過去のものとしてしまったから。
記憶の味はいつしか絶対的なものとして君臨していた。あの頃の私が感じていたあさりの重厚な風味は、もう体験することができないのかもしれない。
波が静かに、足元を洗っていった。
――つまり、あさりの味があっさりしている。
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