#091 運河をゆく箱

ちいさな物語

夜の運河は静かだった。黒々とした水面を切り裂くように、小さな舟がゆっくりと進む。船頭は無言で櫂を操り、客はじっと足元の箱を見つめていた。

木箱は膝ほどの高さで、ずっしりと重そうだ。縄で厳重に縛られており、持ち主の男はそれを自分の手で舟へと運び込んでいた。

「どこまで行くんです?」船頭がぽつりと尋ねる。

「……あの灯台の先まで」

男は短く答えたが、視線は箱から離れない。箱の中身はそんなに大事なものなのだろうか——船頭は興味を覚えたが、深入りはすまいと決めていた。

舟は闇の中を滑るように進んでいく。運河の両岸には古びた倉庫や、今は使われていない船着き場が並んでいた。夜風が頬を撫で、かすかに塩の匂いを運んでくる。

しばらくして、男がぽつりと呟いた。

「この箱……何が入っていると思います?」

船頭は無言のまま櫂を漕ぎ続けた。

「中身は……」

ちょうど櫂の立てる水音で聞こえなかった。中身は何と言ったのか。

男の言葉には微かな震えがあった。箱は彼にとって、ただの荷物ではないのは確かだ。船頭は訝しむ。

「灯台でおりて、そこからどこまで運ぶんです?」

また別の船にのせて海へ出るのだろうか。男は答えなかった。箱を見つめたままだ。

舟は灯台の方へと進んでいく。暗闇の向こうにかすかに光が見えた。

そして、ふいに箱が小さく揺れる音がした。舟の揺れのせいではない。まるで箱が自ら動いたかのようだ。

男は息を呑んだ。船頭も櫂を止める。風が出てきた。

次の瞬間、箱の中からかすかな音がした。

「……トントン……」

男の顔が息をつめたまま青ざめた。

「どうした?」

船頭の声に男はしばらく答えなかった。しかし、意を決したように口をひらく。

「……ここで、降ります」

舟を岸に寄せ、代金を受取る。灯台はまだ先だ。男は箱を抱え、ゆっくりと降りた。箱の中の音はもう聞こえない。

灯台の明かりがゆらめく中、男は箱を抱えたまま、闇の中へと消えていった。

船頭は舟を漕ぎ出した。何も見なかったように、何も知らぬまま。運河はまた、静寂を取り戻していた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました