昔々、ある村にアヤという娘がいた。
村には不思議な言い伝えがあった。森の奥で、夜にだけ咲く不思議な花があるという。その花を摘めば、一生幸せになれる。
アヤはどうしても、その花を見てみたかった。
「夜に森へ行くなんて危ないぞ」
兄のヨシロウは止めたが、アヤはこっそり村を抜け出し、月明かりの下、森へと足を踏み入れた。
森の奥はひんやりとして、昼間とはまるで別の世界のようだった。しばらく進むと、ぽうっと淡い光を放つ花が見えた。黒紫の花弁が、夜の闇に溶け込むように揺れており、真っ白な蕊がわずかな月明かりに光っていた。
「これが、言い伝えの花……きれい」
アヤは夢中で手を伸ばし、花を摘み取った。
——その瞬間だった。
森の奥から、闇がざわめいた。風もないのに、木々がざわりと揺れる。
「誰だ?」
低く響く声に、アヤは息をのんだ。
暗闇の中から、一人の男が現れた。長い黒髪を持ち、闇のような衣をまとっている。瞳は夜空の星のようで、三日月のように美しい男だった。
「お前がこの花を手折ってしまったのか?」
男の声はどこか甘やかで、抗いがたい力を持っていた。
「私は、この森の主——夜の王だ」
アヤは足がすくんだ。
「お前はその花の代わりに私をなぐさめなければならない」
王の手が、アヤの手をそっと包む。冷たいのにどこか心地よい。
「お前は今夜から、私のものだ。私の大切な花を手折ったのだから」
アヤは叫ぼうとしたが、声が出なかった。
次の瞬間、世界が闇に包まれた。
気がつくと、そこは見たこともない場所だった。夜の森よりもさらに深い、暗闇の宮殿。空には月もなく、地面は柔らかな黒い霧に覆われている。
「ここは……どこ?」
「私の城だよ」
王が微笑むと、黒い霧がさっと晴れ、宮殿の奥が見えた。美しい漆黒の庭園には、紫色の花が咲き乱れている。しかしアヤの手折ってしまった花ほど美しい花はなかった。あれは特別だったのだ。
「私とともに、永遠の夜を生きよう」
アヤは震えながら後ずさった。
「村へ、帰らせてください」
「帰る?」
王は首を傾げる。
「お前は私の花を手折ったのだぞ。二度と太陽の下には戻れぬ」
アヤの胸がざわついた。
「そんな……! 嫌。放して! 兄さん、助けて!」
しかし夜の王は手を放してくれない。声が枯れるまで騒ぎ、暴れた。やがて力尽き、その場にへたり込む。夜の王はようやく手を放してくれた。
「落ち着いたか? 一人では帰れない。夜の狭間に落ちてしまう」
――ふと気づいた。王の瞳の奥にどうしようもないさみしさの光が揺れている。
「……あなたは、ずっとここでひとりだったの?」
王は驚いたようにまばたきをする。
「そうだ。ここで夜の秩序を保つのが私の務め」
アヤは静かに花を握りしめた。この花は本当に王を孤独から救うためのものだったのかもしれない。
「私がここにいれば……あなたはさみしくない?」
王はほほえんだ。
「そうだね。お前がいてくれれば、私はさみしくはない。この花に負けないくらいお前は美しい」
アヤは最後に一度、空を見上げた。
「なら、私は……ここに残る」
その瞬間、夜の花がふわりと光を放った。
それ以来、村人はこう語る。
森の奥の夜の花を摘んだ者は、二度と戻らない。
けれど、満月の夜、森の中から楽しげな笑い声が聞こえることがあるという——。戻れはしないが、一生幸せになれるのだ、と。
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