町の外れには、誰も足を踏み入れたがらない古い建物がある。かつては工場だったというが、倒産後は長らく放置され、壁も床も朽ち果て、鉄骨がところどころ剥き出しになっている。噂によれば、廃墟の奥から夜な夜な人の声のようなものが聞こえるらしい。しかしそれを耳にした者は二度と無事には帰れない。
不良グループのリーダー・タクマは、その噂を嘲笑うかのように「度胸試しに行くぞ」と仲間たちを連れて廃墟へ向かった。昼間は学校に行くフリをして、一日中、それこそ夜遅くまで遊んでいるのが常だ。タクマの後ろには、幼なじみのジュンやド派手な金髪のリョウ、無口で目つきの鋭いショウが続く。
四人が錆びついた門扉をこじ開けると、不気味な軋む音が夜闇を裂いた。懐中電灯の光は頼りなく、風の吹き抜ける音だけが耳を打つ。工場跡の広い空間に入ると、壁の剥がれ落ちたペンキや割れた窓ガラスがかすかな月明かりを受けて形を浮かび上がらせる。その光景は、確かに人が活動できそうにない荒廃したものだった。
「なーんだ、噂ほど怖くないじゃん」
リョウが軽い調子で言葉を投げかけた矢先、ジュンがスニーカーの先で何かを蹴飛ばす。乾いた音が響き、床を転がるのは古びた小さな人形の頭部。髪の毛らしきものは抜け落ち、どこを向いているのか分からない、空洞のような目が妙に生々しい。
「気持ち悪っ……」
ジュンは吐き捨てるように言い、踏みつけるようなフリだけをした。踏みつけられなかった気持ちはわかる。あまりにも禍々しい。仲間たちは誰もそのことには触れなかった。
そのまま足早に奥へ進むと、床に赤茶色のシミがあちらこちらに点在しているのが見て取れる。錆びかもしれないと誰もが思おうとするが、嫌な想像が拭えず懐中電灯を持つ手が震え始める。
ショウは見た目に反して繊細な性格だ。黙りこくって耳をそば立てている。すると、遠くのほうで“コツコツコツ……”と人が歩くような音がした。
「おい、今の……」
タクマが声をひそめた瞬間、何かが通路の奥を横切ったように見えた。人間かと思いきや、その姿は妙に小さく、頭部がぐらついていた。まるで先ほどの人形が動いたかのように——。
「やめろよ。どうせあそこに誰かいるんだろ? 俺たちみたいに肝試しに来てるんじゃないか」
リョウが笑い飛ばそうとするが、その声は明らかに裏返っている。
仲間たちの動揺が広がる中、ショウが「ま、まただ」とつぶやく。再び“コツ、コツ、コツ……”という音が聞こえ、今度は誰かの低いうめき声まで混じっているのがわかった。喉の奥から漏れるような、不規則な息遣い。まるで何かを探し求めているかのようだ。
そのとき、一段と大きな物音とともに、廊下の奥のドアが勢いよく開いた。吹き出す強い風がタクマたちの懐中電灯をあおり、その光が大きく揺れる。ドアの向こう側には真っ暗な部屋が広がっていた。誰もが引き返すべきだと直感したが、タクマだけが「い、行くぞ」と声をかける。ここにきてリーダーとして威厳を保とうとする。しかし、その刹那、タクマの足元を何かが走り抜けていった。
「え……?」
タクマは固まったまま声を失う。短い髪の毛がパラパラと宙を舞う。それはまぎれもなく、あの人形の頭部を思わせる断片。そこに手足らしきものはなく、ただ異形の“何か”が笑い声のようなものを残しながら暗闇へ消えていった。
リョウとジュンは悲鳴をあげ、ショウは息を呑んで壁にしがみついた。辺りの空気が一瞬にして凍りついたように感じられる。いたずら半分だったはずの度胸試しが、誰も想定しなかった化け物を呼び起こしてしまったのか。
「に、逃げるぞ……!」
タクマがようやく声を絞り出し、仲間たちは一斉に廊下を駆け出した。来た道を戻ろうとするが、いつの間にか通路のドアは勝手に閉まり、錆びた鍵がカチリと音を立ててしまっている。誰が閉めたのか、そんなことを考える余裕さえない。
めちゃくちゃに走り回りなんとか門扉までたどり着く。外の風はどこか生温かい。何とか外に出られたことを確認して、ようやく地面にへたり込んだ。タクマは青ざめた顔で息を整え、「なんなんだよ、あれ……」とつぶやいた。
その言葉に誰も答えられない。廃墟の中にいる“何か”が正体不明であること、その存在を、声を聞いてしまった自分たちには何か障りがあるのではないかと生きた心地がしない。
月明かりの下、廃墟の門が静かにたたずんでいる。タクマたちは黙ったまま立ち上がり、恐る恐る振り返った。暗闇に沈む工場跡からは風のような音がする。それはかすかな笑い声とも泣き声とも判別できないような音に聞こえた。そこにいる者が何なのかは知る由もない。
帰り道、彼らの間にはどんな悪ふざけの言葉も生まれなかった。
「あれ? そういや、ジュンは?」
タクマの問いかけにリョウとショウはきょとんとして顔を見合わせ同時に口を開いた。
『ジュン?』
ふざけている様子はない。二人ともポカンと口を開けてタクマを見ている。
「もう、そういうのいいから。まさかまだあん中にいるのか?」
「タクマこそよせよ。ジュンって誰だ。俺たち最初から3人だろ? 怖いこと言うな」
リョウが訝しむようにタクマを見る。タクマが自分たちを怖がらせようとして、冗談を言っているのだと信じ込んでいる様子だ。ショウも同じような顔でタクマを凝視している。
あの人形の頭を蹴ったのはジュンだった。
タクマは黙りこくった。なんらかの力でジュンが消されたとして、ありえないことだが、そう仮定して、なぜ自分だけジュンの記憶が残っているのか。
ただ、あの町外れの廃墟が本当にやばいところだったというのはじわじわと理解し始めていた。これをタクマに知らしめようということなのか。誰よりも強気だったくせに、二度とあの扉を開ける気にはなれない。
「――もういい。帰るぞ」
タクマは何も言わず歩き始めた。
――信じられないことだが、ジュンは本当に消されてしまった。幼馴染みだけに、タクマはジュンの親もよく知っているが、ジュンが消えたと騒ぐ様子はなかった。いや、最初からいなかったかのようになっていて、タクマの家とはやや疎遠になっていた。
声を耳にした者は二度と無事には帰れない。では、自分は? あの人形の声がまだ耳に残っている。
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