カズキは、ふと目についた古本屋に立ち寄った。
「こんなところに本屋なんてあったっけ?」
それは駅前の路地裏にひっそりと佇む店だった。木製の看板にはかすれた文字で「迷文堂」と書かれている。
店内に足を踏み入れると、微かにインクと紙の匂いが鼻をくすぐった。本好きにたまらない瞬間だ。
カズキは適当に本棚を眺めながら、店の奥へと進んでいく。しかし、気がつくと、棚の配置が先ほどとは違っているように感じた。
「……ん?」
振り返ると、入口が見えない。そんなに奥に入っただろうか。どういうわけか、さらに奥へ続く通路が広がっている。
まるで、棚が勝手に動いているようだ。カズキは少し怖くなり戻ろうとした。しかし、どこをどう進んでも、さっきいた場所に戻れない。何だか薄暗い。
そのとき——。
「……あれ?」
本棚の奥に気配を感じた。
誰かがいる?
恐る恐る近づくと、一冊の本が床に落ちていた。拾い上げてみると、表紙には奇妙なタイトルが記されていた。
『ここにいろ』
カズキの背筋が凍った。まるで自分対するメッセージのように見える。
ふと視線を上げると、本棚の隙間から、何かが覗いていた。
——目だ。
黒く、大きな瞳が、じっとこちらを見つめている。
「……だ、誰?」
カズキが震える声で問うと、本棚の後ろからゆっくりと姿を現した。それは痩せた青年だった。
「……出られなくなったの?」
「え?」
「僕も最初はそうだった。気がついたら、この本屋の中にいて……出口を探してるうちに、ここに住みつくことになったんだ」
「住みつく……?」
「うん。この本屋はね、読書好きな人間を気に入ると、閉じ込めちゃうんだ」
そんなこと、ありえるだろうか。
「……どうやったら出られる?」
「うーん……出られる人もいるけど、出られない人もいるみたい。たぶん、本棚次第」
「冗談だろ……?」
「まあ、気楽に考えたほうがいいよ。ここには、面白い本がたくさんあるし。どういうわけか腹もへらない」
青年は笑いながら、一冊の本を手渡してきた。
『本の楽園』
カズキは背後の棚を見た。いつの間にかまた本棚の配置が変わっていて、青年の姿が見えなくなっていた。
『この本屋に入る者は本の一部となる』
そう記された一冊を手に取った瞬間、カズキの視界が暗転した。
——彼が次に目を覚ましたとき、そこはやはり、果てしない本棚の迷路の中だった。夢ではなかったのだ。
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