#105 捕食者の微笑み

イヤな話

 私がその女を初めて意識したのは、部署内の歓送迎会の席だった。会社でも評判の美人で、常に誰かと笑顔を交わしている。いつも話題の中心にいて、人を気持ちよくさせる言葉選びが得意な彼女。にこやかな唇の端からこぼれ落ちる声は柔らかく、一度聞いたら忘れられない。それなのに、私はどうしても彼女に近づきたくないと思った。理由はわからない。ただ、その場にいるだけで体の奥が冷え込むような得体の知れない嫌悪感が込み上げるのだ。

 職場では誰にでも丁寧で、先輩にも後輩にも分け隔てなく接する。少なくとも周りはそう認識している。ところが、私の見ている彼女は少しだけ違う。扉の影から、彼女が席を離れた誰かのパソコン画面を盗み見る瞬間を何度も目撃した。ちょっとした悪気のない好奇心かと思おうとしたが、彼女の目つきは笑っていなかった。あの探るような暗い瞳は、私の背中に冷や汗をにじませるほどだった。

 自分の席に戻っても、彼女の細い指先が他人のキーボードを触れている光景がどうしても脳裏を離れない。あたかも他人の秘密を掴んで、それを楽しんでいるように見えた。実際、翌日から部署内で何かと奇妙な噂が飛び交うことが増えた。あの人が仕事をミスしたとか、別の人が上司に叱られただとか、ちょっとした陰口を含んだ噂だ。その発信源がどこなのか、誰も明言しない。でも、私は無意識のうちに彼女の顔を思い浮かべていた。

 ある日、上司のAさんが突然異動になった。快活で皆から信頼のあった人だ。原因は分からない。ただ、噂によれば重要な書類を紛失したらしい。会社に大きな損失を与えたとして、きわめて厳しい処分が下ったのだという。そして、その資料に最後に触れた可能性があるのが、彼女だと耳にした。だが、上司のAさん自身は誰も責めなかった。「俺が管理を怠ったせいだ」と静かに言っただけで、そのまま異動の辞令を受け入れた。

 私が彼女を苦手だと感じるのは、こうした不可解な空気がいつも彼女の周囲に漂っているからだろう。“何か”が常に隠されている気がする。打ち合わせの席でも、同僚が何気なく口にしたアイデアを、次の瞬間には彼女がさも自分の考えのように披露する。それでも周囲は彼女を非難しない。それどころか、拍手が沸き起こり、後日そのアイデアが正式採用され、彼女の評価はますます高まっていく。

 見て見ぬふりをしていた私だったが、ある日、社内メールの誤送信がきっかけで、部署内の人間関係が大きく揺れる事件が起こった。そのメールは思いきり陰口や悪口にまみれた内容で、私は息を呑んだ。バレたら人間関係など一発で崩壊するような言葉が羅列されていたのだ。それらの言葉は社内チャットに存在しない記録と微妙にリンクしており、誰かが盗み取った情報をまとめているとしか思えなかった。そして一番巧妙なのは、そのメールの送信者名は誰でもアクセスできる共用のテストアカウントだった点だ。普段はメール送信などには使わない。そこからメールが送れることを初めて知ったくらいだ。そのため誰が書いたのか特定するのが難しく、部署全体が互いを疑い合う形となった。

 翌日、彼女はいつも通りの笑顔で出社してきた。みんながピリピリしている中、一人だけ朗らかに同僚に声をかけ、上司に「大変でしたね」と同情を示す。誰もが彼女に感謝こそすれ、疑いの目を向けない。けれど、その横顔には常にうっすらと笑みのようなものが貼りついていて、それが作り物の静けさだと気づくのは私くらいのものだった。

 私は気味が悪くなり、なるべく彼女を避けて席で仕事をしていた。すると、キーボードを打つ私の肩を、そっと叩く人の気配がする。振り向けば、まるで親しみ深い旧友に語りかけるかのような柔らかな笑顔の彼女がそこにいた。「ねえ、ちょっとこれ、見てくれない?」甘い声色で渡された書類には、私の名前が羅列されていた。それは私が担当しているプロジェクトについての内容で、要は私がミスをしたのではないかと、暗に指摘するものだった。もちろん、私はそこに書かれているような不手際をやらかした覚えなどない。

 ただ、そこには彼女を筆頭とする複数人の連名があり、「最近の進捗に不安があります」「クライアントとのやり取りに問題を感じる」と、まるで私の能力不足が原因でプロジェクトが危機に瀕しているかのように書かれていた。私が声を出すこともできず固まっていると、彼女は微笑んだまま、かすかに首をかしげる。「大丈夫、あなたを責めるわけじゃないの。ただ、みんなちょっと心配してるのよ」まるでこちらが悪いことをしたという証拠を、親切心から“教えてくれている”かのようだった。

 そのとき私は初めて、彼女が単なる噂好きや盗み見を好むだけではなく、裏で巧みに他人を陥れる何かを持っていることを確信した。実際のところ、彼女の手元にどんな情報があるのかわからないが、彼女はそれを駆使して誰かをスケープゴートに仕立て上げ、まるで自分は優しい協力者であるかのように振る舞い続ける。それがいつしか誰かの崩壊につながっても、彼女は一切の痕跡を残さない。

 考えがまとまらないまま、私はその書類を手に握りしめた。血の気が引いているのが自分でもわかる。これまでいくつか不審な出来事はあったが、最終的には“誰かのミス”や“管理不足”として処理されてきた。その度に彼女は安全な位置に立ち、まるで被害者の味方を装っていたのだろうか。

 沈黙を破るように、彼女が囁く。「困ったときは相談してね。私、力になれるから」そのねっとりとした微笑みが、私の視界に焼きつく。出社する度に彼女を見るたびに、私は感じる。ああ、きっと彼女はこれがやりたかったのだと。誰かを陥れ、その失意の人に寄り添うことで、自分はやさしいよくできた人間だと感じたいのだ。

 結局、その書類に書かれた疑惑はうやむやになった。噂を聞いて複数部署から人がやってきたが、特に決定的なことは起こらなかった。彼女のもくろみは完全には達成できなかったことになる。私は仕事終わりの夜道を歩きながら、心底疲労しきった頭で考える。

 彼女の瞳に映る人間は、一体どう見えているのだろう? 使えるものを徹底的に利用して、自分は気持ちよくなりたい。そんな彼女の本性に気づいている人はどれくらいいるのだろうか。

 私は静かに彼女との関わりを避けている。また利用されてはたまらないからだ。まるで捕食者に怯える小動物みたいだなと、自嘲気味に思った。

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