毎朝、同じ道で同じ時間に、彼女とすれ違っていた。
髪の長い女性で、いつも白いブラウスに黒いスカートを履いている。最初は何とも思わなかったが、何度もすれ違ううちに、彼女の存在が気になり始めた。
ある朝、勇気を出して「おはようございます」と声をかけた。彼女は驚いたように目を見開いた後、微笑んで「おはようございます」と返してくれた。その日から、少しずつ話すようになった。
「お仕事は何を?」
「今は、特にしていません」
「へえ、時間に余裕があるんですね」
「……そうですね」
彼女はいつも曖昧に笑うだけで、自分のことをあまり話そうとしなかった。でも、話していると不思議と心が落ち着いた。
俺はだんだん彼女に惹かれていった。
そんな日々が続いたある日、ふと気づいたことがあった。
彼女はいつも同じ服を着ている。たまには違う服を着ていてもいいはずなのに。そうは見えなかったが、もしかしてどこかの制服だろうか。仕事はしていないといっていたので、社会人になってから、もう一度学校に入り直した、とか? いや、そういった学校に制服があるような気がしない。
気になって「今度、どこかでお茶でも」と誘ってみた。彼女は少し困ったように微笑んだ。
「私は……あまり人の多いところには行けないんです」
マイルドな表現でお断りされている。それくらいのことは理解できたので、それ以上は何も言えなかった。
ある日、衣替えをしていたらタンスの底に敷いてあった古い新聞記事を目にしてしまった。こんな古い新聞がなぜここに……。
「〇〇駅、女性殺害される。犯人はストーカーか」
背筋が凍った。そこには彼女によく似た女性の写真が載っていた。名前も彼女が名乗っていたものと同じだった。十年近く前の殺人事件の記事だ。
震える手でスマホを持ち彼女の名前を検索した。出てくるのは、彼女が元交際相手の男性からの執拗なつきまといに遭い、あげくの果てにひどい方法で殺害されたというネット記事。当時はかなり話題になっていたことをなんとなく思い出した。なぜあんな大きな事件を忘れていたのだろう。当時は「どうせ痴情のもつれだろう」と我関せずと関わり合いを避けた通行人や、以前よりストーカー被害を訴えていた被害者に対する警察の対応に批判が集まったりと、大きな波紋を呼んだ事件だった。「最も残酷な殺害方法」と興味を煽るような表現でその詳細を記したサイトまであり、胸が悪くなった。
──彼女は、もうこの世にいない?
信じたくなかった。けれど、思い返してみると、彼女がどこに住んでいるのかも知らなかったし、携帯番号すら交換していなかった。毎朝、同じ場所に現れるだけ。まるで……。
俺はあの道へ向かって走った。
彼女はいた。いつもの場所に静かに立っていた。同じ服装で、寸分たがわず。
「君は……」
彼女は何も言わず、ただ微笑んだ。
「もう気づいたんでしょ? 本当は……ずっとこの場所にいたの」
「……どういう意味?」
「ここで死んだから」
風が吹き抜け、彼女の髪がふわりと舞った。俺はその場に膝をついて地面に手を触れた。逃げようとする彼女の髪をつかんだ男は彼女を背後から刺し、驚いて振り向いた彼女の顔を滅多刺しに――あのサイトの表現が頭をよぎる。涙がこぼれた。
「大丈夫。もう全然痛くないの。私を殺した人は自由の身ではないけれどまだ生きている。私の方は人々から忘れられた存在。復讐すらできずただここを彷徨うだけ……」
「……そんな」
「でもね、あなたが気づいてくれて嬉しかったの。ありがとう」
彼女の姿が少しずつ薄れていく。
「もしも、もう一度生きられるなら……あなたと……」
最後の言葉は、風にかき消された。
次の瞬間、彼女の姿は完全に消えていた。
それ以来、彼女の姿を見かけることはなくなった。
俺は今でも、毎朝あの道を通る。彼女がふいに現れるのではないかと期待してしまう自分がいる。
この表現であっているのかはわからないが、彼女は成仏したのかもしれない。全然納得はしていない様子だったが、ここに立っていてもどうしようもないということを理解してしまったのかもしれない。
……いや、もしかすると、「立っていても仕方ない」ことに気づいただけで、彼女の復讐はまだこれからなのか。
ふっと道に風が吹き抜けた。
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