「このキーボードは、打った言葉を現実にする」
店主にそう言われて、俺は半信半疑でその黒いキーボードをながめる。古道具屋にキーボードというのがめずらしくて、俺はそれを手に取っていた。どこにでもある普通のキーボードと変わらない。ただ、モニターにつないでいないので、つかえるかどうか確認できない。
「モニターは? つないでみても?」
「それじゃ意味がない。ある種の完全なる『ブラインドタッチ』でしか効果がないんだ。モニターにつないだら、それはただのキーボードになる。ちょっと試してみたらどうだ? 貸してやる。いや、タダでやるよ」
男は不敵な笑みを浮かべ店の奥へ消えていった。タダなら別にいいか。最悪捨てるだけだ。
俺はキーボードを持ち帰り、デスクに置いた。試しに、打ってみる。
——「コーヒーが飲みたい」
次の瞬間、テーブルの上に、熱々のコーヒーが出現した。
「……マジかよ」
これはすごい。何でも思い通りにできるってことか?
俺はすぐに次の言葉を打つ。
——「100万円」
すると、目の前に札束が積み上がる。
「ははっ! これはヤバい!」
舞い上がった俺は、次々に言葉を打ち込んだ。
——「豪邸」
——「スポーツカー」
——「絶世の美女」
すると、それらはすべて、現実になった。俺はキーボードの力を完全に信用した。だが、ここである問題に気がつく。
「……もし打ち間違えたら?」
モニターがない以上、何を打っているのか確認できない。俺はタイピングに自信があるが、それでもミスはする。不安になったが、まあミスさえしなければ大丈夫だろうと楽観した。
——そう、その時までは。
あらゆる贅沢に飽きた、ある夜、俺は何の気なしにキーボードで文字を打った。
——「最高の夜」
とりあえず、退屈しのぎに何をもって「最高」とするのか、キーボードに丸投げしてみた。するとすぐに玄関のチャイムが鳴る。美女か、豪華な酒と食事か、それともまったく未知の種類の何かか。
緊張しながらドアを開けると、そこには血まみれの男が立っていた。
「お前が呼んだんだろ?」
「は?」
「サイコの夜。お前の願い通りに来たぜ」
俺は青ざめた。タイプミス。
「おい……ふざけんなよ……」
「ふざけてねえよ」
男はニヤリと笑い、懐からナイフを取り出した。
「今夜は、サイコに楽しいことをしようぜ?」
アホな冗談まで言いやがる。俺は慌ててキーボードに手を伸ばした。
——「なんとかして」
サイコ野郎が「うわっ」と悲鳴をあげてすっころんだ。その足元を見るとどろどろになった白い何かがある。まさか、これは――。
——「ナン、溶かして」
「違う! 違うけど助かった!」
タイプミスで読点が入ってしまったらしい。そうこうしているうちにサイコ野郎が頭をさすりながら起きあがろうとしている。
俺はキーボードをしっかりと持った。恐怖で指が震えて打ちにくい。ここでタイプミスをしたら一巻の終わりだ。
その間にも、サイコ野郎は起きあがり、はじりじりと近づいてくる。
「やめろ……! ちょっと待て……!」
——俺の手は最後の一文字を打ち終える。ターンとエンターキーを叩く音が部屋に響いた。
「元に戻れ」
頼む。タイプミスしていないでくれ!
気がつくと、俺は元の狭いワンルームにいる。豪邸も、金も、手にしたすべてが消えていた。もちろんサイコ野郎もいない。
キーボードだけが、デスクの上にぽつんと残っている。
……もう二度と触らない。
俺はそれを棚の奥にしまい込みその存在を忘れようとつとめた。
#111 致命的なタイプミス

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