#116 開けてはいけない

ちいさな物語

「古い家なので、あまりそこら中あけたてしない方がいいですよ」

不動産屋は鍵を渡すとき、なんだか歯切れの悪い言い方で忠告してきた。

古い平屋の一軒家。築100年以上という、味のある古民家だ。確かに派手にいじりまわすと普請が必要になるかもしれない。

賃料が驚くほど安かったことに若干の疑問を感じていたが、憧れの古民家生活を前に私は不動産屋の忠告を軽く聞き流していた。

だが、住み始めて数日後、私は広間の畳がわずかにずれていることに気がついた。畳の端から微かに冷たい空気が流れている。

「これは床下が心配だな」

不安に思い畳をめくると、そこには古びた木製の扉が現れた。

――不動産屋にもらった平面図にはこんなものはなかったはずだ。床下収納か何かか?

好奇心が勝った。私はほぼ取れかけている鍵を外し扉を開いた。

瞬間、湿った土の匂いと、かすかな腐敗臭が鼻を突いた。これは相当前から誰も手入れしてないな。

恐る恐るスマホのライトを照らすと、床下に深く続く空間が広がっている。収納にしては広すぎる。

真っ暗な闇の中、冷えた空気が私の肌をなでる。奥までライトが届かず、底のない闇に飲み込まれるような錯覚に陥った。

「ちょっと気味が悪いな」

引き返そうとしたそのとき、「……ぁ……ぅ……」微かな音が聞こえた。

誰かがいる?

いや、猫でも入り込んで子育てしているのかもしれない。

――だが、そうではないと、直感的に嫌な想像が頭を駆けめぐる。息を殺して耳を澄ますと、何かが這いずるような音がした。土の上を擦る、微かだが確かな音。

「ね、猫かな?」

声を出してみるが当然反応はない。

だが、音は止まらず、徐々にこちらに近づいてくるような気がした。

急に恐怖が込み上げ、私は慌てて扉を閉め、畳を元通りにした。

その晩、夢を見た。床下から這い出した影が、私の寝室の前まで忍び寄る夢だった。

翌朝、不動産屋に電話した。

「あの床下、何があるんですか?」

すると彼は押し黙った後、観念したように呟いた。

「あの家は、昔、ある夫婦が住んでいたんですが……」

彼の話によれば、夫婦は突然失踪した。その後、家に住んだ人間は皆、床下から聞こえる音や、妙な気配に悩まされ、長くは住めなかったという。

それでも、その床下を調べようとした者は、誰ひとり戻って来なかったらしい。

電話が終わった瞬間、私は背後から微かな音を聞いた。

畳の隙間が開いている。明らかに昨夜とは違う隙間。誰かが開けたとしか思えない。部屋中を見渡す。どこだ? どこにいる?

畳をめくる勇気はもう無い。しかし、すでに何かが入り込んだことを、私は直感した。

その夜、息遣いは私の耳元まで迫った。目を開ける勇気もなく、布団の中でただ震えるだけだった。

翌朝、引っ越しを決意した私は荷物をまとめ、すぐさま不動産屋に電話した。鍵を返す際、彼は苦笑しながら言った。

「やはり開けてしまったんですね……」

その言葉に血の気が引く。あんなヤバい物件を「床下を開けなければいいだろう」と気軽に商売のネタにするのか。しかし私は不動産屋をなじるようなことはせず、軽く挨拶をして早々に立ち去った。とにかく早くあの家と縁を切りたかった。

手荷物だけを持って、私はその家を後にした。何となく振り返って家を見ると、真っ黒な何かが、玄関の戸の隙間から、こちらをじっと覗いていた。

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