#119 隣の家の花

ちいさな物語

俺が住んでいるのは、普通の住宅街だ。静かで、のどかで、特に変わったこともない。そう思っていた。あの花を見るまでは。

隣の家の庭には、大きな花が咲いている。鮮やかな赤色で、肉厚の花びらが妙に生々しい。南国のジャングルに咲いていそうなイメージだ。はじめは観賞用の植物かと思っていたが、ある日、異変に気づいた。

「……ん?」

出勤前、ふと気になって観察してみると、その花が歩道に大きくはみ出している。まるで、意図的に伸びてきたかのように。

邪魔だが、それだけならさほど問題はなかった。しかし、それから数日後、俺はあることに気がついてしまう。

以前、この通りでよく見かけた人たちを見なくなった。通勤のとき、必ずすれ違う犬の散歩をしているおじいさん、帰りによく見かける大学生っぽいやせた青年、休みの日にスーパーへ行くとよく会った主婦らしき女性。

最初は気のせいかと思った。けれど、どう考えてもおかしい。人が減っている。シルバーカーを押して歩いていたおばあさんも見なくなった。毎朝ランニングしていた若い女性も。

そのときはもちろん、歩道にはみ出して咲く花とは別の異変としてとらえていたが……。

ある日、仕事の帰りにあの花の前を通った。

街灯の下、花は静かに揺れている。風は吹いていないのに。俺は何気なく花をスマホのライトで照らしてよく見てみた。

そのとき、肌がぞっとあわだった。

花の根元に、何かが絡みついている。布の切れ端?  これは……服の一部? しかも、乾いた血のようなものが染みついている。

心臓がバクバクと鳴った。この花の辺りで何かあったのか。

その瞬間、背後から音がした。

「おや、夜遅くにどうしました?」

隣の家の住人だった。たしか一人暮らしの老人だ。しかし彼の目は妙にギラついている。まるで、俺の動揺を楽しんでいるかのように。

「……いや、ちょっと、この花がめずらしいので、気になって」

「そうですか。でもあまり近づかない方がいいかもしれませんよ」

次の瞬間、足元がぐらりと揺れる。花が──花の根本から伸びたつるのようなものが俺の足を絡め取ろうとしていた。

「なっ……」

咄嗟に飛び退いた。すると、花はゆっくりと花びらを開く。中から、無数の鋭い棘が覗いていた。血のように見える赤いどろどろした液体が花弁から垂れている。

「ひっ!」

俺は慌てて後ずさったが、老人は微笑んだまま言った。

「この花は、人を喰うのですよ」

ぞわりと全身の毛が逆立った。

「ご近所さんも、ずいぶんと食べてしまったようです。はじめは虫とかで育っていたんですけど、どんどん大きなものを食べるようになってしまって……」

「そんな……まさか」

「さて、どうしたもんでしょうかね」

花が、ゆっくりとつるをこちらに伸ばしてくる。俺は、一瞬の迷いもなく、その場から全力で逃げ出した。

俺はその足で交番に通報した。しかし、駆けつけた警察官は首をかしげるばかりだった。

「そんな花はありませんよ?」

驚いて隣の家を見たが、そこにはただの、何の変哲もない庭があるだけだった。花どころか、あの老人の姿もない。無人の荒れ果てた庭だった。

「そんな馬鹿な……」

あれは夢だったのか? いや、違う。確かに俺はあの花を見た。そして、服の切れ端を。しかも実際に近所の人は消えている。

だが、それを証明するものは何もない。よく会う近所の人だって言葉を交わしたわけではないし、どこに住んでいる何という人だと知っているわけではない。そもそも人が一人行方不明になったら、家族が騒ぎ出して今頃事件になっているはずだ。

それ以来、俺は隣の家を注意深く観察している。しかし、あの花は見当たらないし、家はずっと空き家のままだった。

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