#126 桜の散る夜

ちいさな物語

昔々、と言うほどではないが、今よりずっと昔の話だ。ある村のはずれに、大きな桜の木があった。

それは見事な一本桜で、春になると村中の者が見に行くほど美しかった。だが、不思議なことに、桜の散る夜にだけ、そこに娘が現れるという噂があった。

その娘は、白い着物をまとい、桜の花びらのように儚げな美しさをしているという。彼女を見た者は「何かを待っているようだった」と口々に語った。

村の若者の一人、庄吉しょうきちは、この噂に興味を持った。

「どうせ誰かのいたずらか、見間違いだろう」

そう思った庄吉は、満開の夜に桜のもとへと向かった。

月が冴え冴えと照らす中、庄吉は桜の木の下に立った。

花びらがはらはらと散るその下に、確かに娘がいた。それは噂に違わず、美しい娘だった。

白い着物が風に揺れ、結っていない長い黒髪が月光に照らされている。

だが、近くで見ると、娘の表情はどこか寂しげだった。

「こんな夜更けにこんな場所で何をしている?」

庄吉が声をかけると、娘はゆっくりと顔を上げた。大きな瞳がまっすぐに庄吉を見つめる。

「……人を待っています」

その声は、ひどくか細かった。

「人を?」

娘はふっと微笑んだ。

「少しお話ししませんか?」

庄吉は少し戸惑ったが、断る理由もなく、並んで桜を眺めた。

娘は静かに話し始めた。

「私は昔、この村にいた者です」

「それは……どういう意味だ?」

この娘は村人ではないことはわかっている。だから不思議がってみんな噂をするのだ。

「桜が咲き、桜が散る。そのたびに、私はここに戻ってきます。――でも、それも今年で最後です」

庄吉はぞくりと背筋が冷たくなった。

娘の足元をよく見ると、そこに影がなかった。月は皓皓と輝いている。夜とはいえ影がないのは不自然だ。

(この人は……本当に生きていないのか)

ふと風が吹いた。

ぶわっと桜の花びら舞う。その瞬間、庄吉は信じられない光景を見た。娘の体の向こう側がうっすらと見える。透けているのだ。体の中を花びらがはらはらと通り抜ける。

庄吉は思わず息を呑んだ。それはあまりに美しくはかなげな光景だった。

娘は自分が消えかけていることに気づいているのか、静かに桜を見上げ目を閉じる。

「この桜が散り終えると、私はもう二度とここには戻れません」

「……」

「最後に誰かと話したかった。あなたが来てくれて、本当にうれしい」

そう言って、娘はそっと手を伸ばした。

しかし、その手は庄吉に触れることなく、桜の花びらとともに風に溶けていく。

「……ありがとう」

最後に、娘は微笑んだ。そして、彼女の姿は夜の闇へと消えた。

次の日、庄吉は村の年寄りにこの話をした。すると、年寄りはこう語った。

「それは、昔ここで亡くなった娘だろうよ。許嫁いいなずけを戦で失い、それを嘆いて桜の木の下で首をくくった」

だから、桜の散る夜にだけ現れ、その人を待っていたのかもしれない――。

それから庄吉は、毎年桜が咲くたびにその木を訪れた。しかし二度と娘の姿を見ることはできなかったという。

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