#130 木蓮の歌

ちいさな物語

祖母の家の庭には、大きな木蓮の木があった。

春になると白い花が咲き誇り、甘く濃厚な香りを漂わせる。その美しさもさることながら、僕にはずっと気になっていることがあった。

それは——木蓮が歌うこと。

咲いている時期だけ、微かな歌声が聞こえるのだ。

「おばあちゃん、木蓮の花が歌ってるよ」

幼い僕がそう言うと、祖母は笑って「風の音さ」と言った。でもなんとなくうれしそうに見える。

母も父も「気のせいだよ」と取り合ってくれなかった。でも、僕には確かに聞こえたんだ。

それはどこか懐かしくやさしい歌だった。

成長するにつれ、僕も「風の音」だと納得しようとしていた。でも、毎年春になるとやはり耳を澄ませてしまう。

——やっぱり、歌っている。

そんなある年、祖母が亡くなった。

その年、春が来ても木蓮の花は咲かなかった。

「今年は咲かないね」

母が寂しそうに言う。

祖母がいなくなった庭は、何かがぽっかりと欠けたようだった。

僕はふと、木蓮に近づいた。

——静かだった。

初めて何も聞こえない春だった。

「やっぱり気のせいじゃない。木蓮は歌っていたんだ……」

祖母がいる間だけ、木蓮はその存在をよろこび、歌っていたのではないか——そんな気がした。木蓮はきっと祖母のことを深く愛していたんだ。

次の年も、その次の年も、木蓮は花をつけなかった。

そして僕はもう、あの歌を聞くことはないかもしれない。

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