祖母の家の庭には、大きな木蓮の木があった。
春になると白い花が咲き誇り、甘く濃厚な香りを漂わせる。その美しさもさることながら、僕にはずっと気になっていることがあった。
それは——木蓮が歌うこと。
咲いている時期だけ、微かな歌声が聞こえるのだ。
「おばあちゃん、木蓮の花が歌ってるよ」
幼い僕がそう言うと、祖母は笑って「風の音さ」と言った。でもなんとなくうれしそうに見える。
母も父も「気のせいだよ」と取り合ってくれなかった。でも、僕には確かに聞こえたんだ。
それはどこか懐かしくやさしい歌だった。
成長するにつれ、僕も「風の音」だと納得しようとしていた。でも、毎年春になるとやはり耳を澄ませてしまう。
——やっぱり、歌っている。
そんなある年、祖母が亡くなった。
その年、春が来ても木蓮の花は咲かなかった。
「今年は咲かないね」
母が寂しそうに言う。
祖母がいなくなった庭は、何かがぽっかりと欠けたようだった。
僕はふと、木蓮に近づいた。
——静かだった。
初めて何も聞こえない春だった。
「やっぱり気のせいじゃない。木蓮は歌っていたんだ……」
祖母がいる間だけ、木蓮はその存在をよろこび、歌っていたのではないか——そんな気がした。木蓮はきっと祖母のことを深く愛していたんだ。
次の年も、その次の年も、木蓮は花をつけなかった。
そして僕はもう、あの歌を聞くことはないかもしれない。
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