昔々、と言っても、それほど遠い昔ではない。ある村の山奥に、誰も近づこうとしない池があった。
その池は「鏡池」と呼ばれ、どんなときも水面が静かで、まるで鏡のように景色を映すという。
しかし、村人たちは口をそろえてこう言うのだ。
「あの池の水には、絶対に触れるな」
なぜかと尋ねても、「昔からの言い伝えだ」と言うばかりで、誰も詳しい理由を語ろうとしなかった。
そんな噂を聞いて、好奇心旺盛な若者・弥一が、ある日ひとりで池へ向かった。
木々をかき分け、獣道を進むと、ぽっかりと開けた場所に出た。
そこには噂通りの池があった。
風が吹いても波ひとつ立たず、木々の緑や空の青をあまりにも鮮明に映している。
「……確かに、普通の池とは何か違うな」
弥一は、しゃがみこんで水面を覗き込んだ。自分の姿が驚くほど鮮明に映っている。
だが、じっと見ているうちに、妙な違和感が生まれた。
(……俺、こんな顔をしていたか?)
何かが違う。けれど、それが何なのかはっきりしない。
弥一は波ひとつ立たない水面が本当に水なのか確認したくなり、指を差し入れてしまった。
すると、その瞬間——。
池に映った自分の顔が、にやりと笑った。
驚いて指を引っ込める。だが、自分の顔は動いていない。気のせいか?
池の中の弥一がこちらを見つめ、そして歪んだ笑みを浮かべはじめた。気のせいではない。背筋が凍りついた。
しかし、立ち上がろうとしたそのとき、池の中の「弥一」がすっと手を伸ばす。
「交代だ」
ぞわり、と全身に寒気が走る。弥一はとっさに後ずさった。
その瞬間、池の中の「弥一」の表情が、ふっと元に戻った。池から伸ばされていたと思った腕も消えている。弥一は、全力でその場を駆け出した。
村へ戻った弥一は、すぐに年寄りたちに池のことを話した。
すると、年寄りのひとりが深くうなずき、語り始めた。
「弥一、お前、池の水に触れたのか。――昔、あの池で水を覗き込んだ者がいた。そして、水に映った自分に引きずり込まれた。しばらくして戻ってきたが——何かが違っていた」
「……違う?」
「ああ。顔も声も同じだったが、性格も、仕草も、まるで別人のようだった。まるで、“あちら側”のものと入れ替わったようにな……」
弥一は、池の中の「自分」が浮かべた歪んだ笑みを思い出し、背筋が凍った。
弥一は慌てて水瓶の水に自分の顔を映す。何も変わりはない。変わりはないが――。
今度はじっと自分の手を見つめた。変わりは――ないように思うが。
事情を知らない村の娘たちが「やいっちゃん、今日はなんか感じが違うねぇ」と笑いながら通り過ぎていく。
弥一は自分が元の弥一なのかわからなくなってしまった。
そして「前と何か違う」と言われるたびに、じわじわと心を病み、とうとう一人首をくくってしまった。
弥一が本当に池の中のものと入れ代わっていたのか、それは最後までわからなかった。
そして村人たちは、改めてこう言い伝えるようになった。
——鏡池の水には、決して触れるな。水面に映っているのは池の中のもののけで、人間と入れ代わる機会をうかがってるんだ。
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