#164 終わらないエスカレーター

ちいさな物語

その日も私はいつものように駅へ向かった。
 
改札を通り、乗り慣れたエスカレーターに足をかける。足元には、「お気をつけてご利用ください」というありふれた注意書きがある。
 
無意識のうちに視線を下げ、ぼんやりとその文字を眺めていた。
 
ふと、妙に長い時間エスカレーター上階にたどり着かないことに気づいた。
 
いつもなら数十秒ほどで終わるはずの上りエスカレーターが、なぜか今日はやけに長く感じる。
 
気のせいかと思い顔を上げると、見慣れた景色のはずなのに、どこか違和感がある。
 
両側の壁に並んだ広告が、まるで同じ位置で繰り返されているように感じた。
 
不思議に思って背後を振り返るが、降り口は遥か遠く、霞んで見えなくなっていた。そして前も同じだ。明らかに異常だ。
 
そしていつの間にかエスカレーターに乗っているのは自分一人になっていた。
 
朝のラッシュ時である。いつもなら前も後ろも人が連なっていたはずだ。
 
私は思わず声を出そうとしたが、迷ったあげくに口を閉ざした。「こんなことで騒ぐのはおかしい」と、自分に言い聞かせる。自分は疲れているのだ。それにたまたま人がいなかっただけかもしれない。
 
しかし数分が過ぎても、景色は一向に変わらない。
 
焦りが次第に募り、私は再び周囲を見渡した。すると、さっきはいなかったスーツ姿の男性が少し後ろに立っている。彼はこちらを認めると、小さくため息をつき、つぶやいた。
 
「あなたも、来てしまいましたか」
 
「え?」
 
「このエスカレーターには、終わりがないんです」
 
その男性は苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
 
「そんな馬鹿な……」
 
私がそう言うと、彼はため息をついて答える。
 
「そう思うでしょう。でもこうなったらそう簡単には戻れません。そのうち気づきます。私はこれ、二度目なんですよ」
 
「でも、こんなの普通じゃないでしょう?」
 
男性は小さく首を振った。
 
「日常なんて、案外そんなものです。『普通』なんて宗教みたいなものですからね。正気を保つために人は『普通』ってのを信じて暮らすんです。本当はこういうのが実態です」
 
私は混乱し、必死で目を閉じた。目を開ければ、全てが元通りになると信じたかった。
 
目を開けると、エスカレーターの風景はまだそこにあった。前も後ろもかすむように遠く、壁の広告は繰り返し流れ続ける。ただ、違ったのは先ほどまでいた男性がもういなかったことだ。
 
私は再び振り返り、彼の姿を探した。だが、見当たらない。現れたときも唐突だったが、消えたときも唐突だった。
 
そうか。そういうものなのか。
 
「気づいてなかっただけか……」
 
私は小さくつぶやきながら、エスカレーターの先を見つめた。どれほど進んでも、同じ景色が繰り返されるだけ。まるで時間などないかのようだ。
 
すると、不意に上の方から微かな笑い声が聞こえた。
 
私は驚いて見上げるが、誰もいない。ただ、エスカレーターだけが淡々と動き続ける。
 
私は一歩踏み出し、エスカレーターを逆走してみる。しかし、状況は変わらない。前にも後ろにも果てがないように続いている。
 
あの日以来、私はまだエスカレーターの上にいる。あの一度だけ会った男性は「二度目だ」と言っていた。つまり一度は元の世界に戻ったのだ。しかし、いつ終わりが訪れるのだろう――ただ、それを待つしかないようだった。

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