#167 世界中でただ一人

ちいさな物語

目が覚めると、世界は静寂に包まれていた。
 
いつものように目覚まし時計は鳴らず、窓の外から車の音も、隣人の話し声も生活音もまったく聞こえなかった。
 
不審に思い外に出ると、そこには誰一人いなかった。街は何もかもそのままだったが、ただ人間だけが消えていた。
 
「これは夢?」
 
僕は頬を叩き、つねってみたが痛みは確かにあった。そもそもこの古典的な確認方法に意味があるのか……。
 
コンビニに入ると、食料や飲み物は整然と並び、品物もレジも変わりない。揚げたてに見えるホットスナックがケースの中におさまっている。まるでさっきまで店員が作業をしていたように見えた。
 
朝食を買おうかと思ったが、スマホが圏外だ。電子マネーが使えない。あとでお金を払いますと心の中でつぶやいて、僕はペットボトルの水を一本とる。それはよく冷えていた。
 
店を出て、車が止まったままの大通りを歩いた。沈黙に覆われた世界に、自分の足音だけが響く。一体何が起こったのだろう。
 
「僕はこのままひとりなのか?」
 
それから、僕はあちこちを回った。駅も、学校も、いつも通っていた会社も無人だった。あれはデマだと聞いたことがあるが、無人で漂流していたというメアリー・セレストのことを思い出す。本当に忽然と人だけが消えてしまったみたいだ。
 
人がいないと思うと、だんだん大胆になってくる。無人のカフェに入り、カウンターに置いてあったハムエッグを食べた。コーヒーとトーストもいただく。
 
「あとでお金を払います」
 
どうせ誰もいないが一応カウンターの奥に声をかけた。
 
孤独はあるが不自由は感じない。電気も水道も問題なく動いている。電気も水も人がいなければ供給されないと思うのだが。もしかしていずれ止まってしまうのだろうか。
 
世界はただ黙って僕を見つめている。
 
やがて、孤独に慣れ始めた頃、僕は誰もいない街で自由に暮らしていた。どういうわけか時間の経過がおかしい。電気も水も止まらないし、適当に飲食店に入ると湯気のたつ料理や飲物が厨房や客席に置かれている。
 
映画館に入ると無人の客席に向けて映画が上映されており、ゲームセンターもにぎやかな音を立てて稼働していた。
 
「あとでお金を払います」といえば、とりあえず罪悪感なく欲しいものが手に入る。
 
これは幸せであるはずなのだが。
 
「全然うれしくない。楽しくもない……」
 
何もかも自由なはずなのに、だんだん心が空虚になっていった。孤独は少しずつ僕の心を蝕んでいったのだ。やがて、自分の存在さえ確かでなくなっていくような気がした。
 
「助けて! 誰か! 助けて!」
 
無人の車道を駆けながら、悲鳴のように叫んだ。その瞬間、突然世界が歪み、視界がぼやけていった。激しい痛みが身体を貫く。
 
次の瞬間、まばゆい光の中で目を覚ました。
 
「目を覚ましました!」
 
女性の声が聞こえ、目の前には医師や看護師、そして泣いている母と姉がいた。父もその隣で目をうるませている。
 
「君は交通事故でずっと昏睡状態だったんだよ」と医師は優しく言った。
 
「じゃあ、あれは……夢?」と僕は呟く。
 
病院のベッドで深呼吸をすると、廊下からは人々の話し声、歩き回る人の気配、窓の外からは救急車のサイレン。うるさいほどのそれが、どうしようもなく懐かしく、そして温かく感じた。
 
僕はもう一度ゆっくり目を閉じる。孤独ではない喜びと、世界にいるすべての人間への感謝がじわりと広がっていく。

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