「おぬし、靴下の正しいはき方を知っておるか?」
町の片隅にある古びた喫茶店。
コーヒーをすする私に、向かいの席の老人がそう問いかけた。
「え? 靴下のはき方ですか?」
「そうじゃ。ただ足を突っ込めばいいと思うておるじゃろう?」
当たり前じゃないか。靴下なんて、つま先を入れて引き上げるだけだ。
「ふっふっふ、それが違うのじゃよ。よく聞くがよい」
そう言って老人は、コーヒーカップを置き、語り始めた。
「まず、靴下を手に取る。左右がある場合は、間違えぬように確認することじゃ」
「いや、靴下に左右は……ありました?」
「あるのじゃよ。気づかぬだけでな。よく見なさい。左足は左足の顔、右足は右足の顔をしておる。間違えると靴下は一日中不機嫌じゃ」
老人の目が妙に鋭く光る。
靴下の顔? 新しい概念だ。
「次に、靴下の口を広げ、つま先を入れる。このとき、足の指の位置を意識せねばならぬ。親指がどこにあるか、小指がどこにあるか——それを誤ると、運気が乱れる」
いや、五本指靴下じゃないんだよな、それ?
「運気っていうと?」
「そうじゃ。靴下には“流れ”がある。布の繊維が織られた方向、ゴムの締まり具合……それらが足の気の流れと調和することで、はじめて真の快適さが得られるのじゃ」
なんだか大げさな話になってきた。
「そして、かかとを合わせ、ゆっくりと引き上げる。このとき、一気に引っ張ってはいかん。じわり、じわりと足を包み込むようにするのじゃ。少しずつ、少しずつ、大地を引き上げるように慎重に」
「別に急いで履いても——」
「試したことがあるのか?」
「え?」
「じわりと履くのと、ガッと履くのとでは、足の感触がまるで違うはずじゃ。試してみよ」
「え? 今、ここでですか?」
「そうじゃ! お主は何か不安だ」
仕方なくカフェで私は一度靴下を脱ぎ、言われるがままに、片足だけをじわりと履き、もう片方を普段どおりに引き上げた。
——なんとなく、違う気がする?
「どうじゃ?」
「……まあ、もしかしたらおっしゃるとおりかもしれません」
「そう思うじゃろう!」
老人は我が意を得たりと目を輝かせた。
「これは古来より伝わる靴下道の奥義の一端にすぎぬ」
「靴下道?」
「そうじゃ。そして、ここからが重要じゃ」
老人は身を乗り出した。
「靴下を履いたあと、最後に“しっくり”を確かめねばならぬ」
「しっくり?」
「そうじゃ。足と靴下がぴたりと一体になったと感じる瞬間がある。それが訪れねば、まだ不完全。左右のバランスが崩れ、歩くたびに違和感を覚えることになる」
「そんなこと……」
「あるのじゃ。おぬし、今までことごとく物事がうまく運ばない日があったじゃろう?」
思い当たる節はある。しかし、それはおそらく誰にでもある。
「それは靴下が原因じゃ」
そう? なのか?
「つまり、靴下のはき方とは……」
老人はニヤリと笑い、こう締めくくった。
「己の足と語らうことじゃ」
私は騙されたと思って、靴下を履くときに少し慎重になってみた。老人の話が本当なのか、それともただの戯言なのか——それは分からない。
ただひとつ言えるのは、朝、何かを慎重に、丁寧にやりとげると、その後の活動も自然にぴしっと背筋を伸ばして行える。
靴下のおかげなのかは正直わからないが、社内での評価がじわりじわりと上昇し、恋人もでき、人生順風満帆だ。あれ以来、運気があがっているような気が――しなくもない?
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