#178 君を観測するまで、君は存在しなかった

ちいさな物語

ぼくは、毎朝同じ夢を見る。
 
灰色の霧が立ちこめる部屋。窓の外にはなにもない。ただ、光のようなものが、ぼんやりとそこにあるだけ。
 
その部屋の中央に、彼女は座っている。
 
黒髪の、透き通るような肌の、憂いを含んだ目をした少女。名前も、年齢も、なにもわからない。でも、なぜか「知っている」と思ってしまうくらい、彼女はぼくにとって親しい存在だった。
 
彼女は言う。
 
「今日もまた、観測されちゃったね」
 
何を言っているのかわからない。けれど、彼女の声はやわらかくて、どこか哀しげで、聞くたびに胸が痛んだ。
 
夢から覚めると、ぼくの部屋には彼女の気配などなにもなくて、ただ壁に埋め込まれた時計が、無機質な音を立てていた。
 
それが、大学で量子力学を学び始める前の、日課のような夢だった。
 
ある日、教授が話していた。
「量子もつれのペア粒子は、どれほど離れていても、観測された瞬間に相手の状態も決まる。この“瞬時の相関”が、いまでは宇宙の情報構造そのものと関係していると考えられているんだ」
 
ぼくの頭の中で、あの少女が微笑んだ。
 
もしかして、彼女は——夢の中の彼女は、ぼくが「観測すること」によって存在していたのではないか?
 
彼女自身が言っていた、「観測されちゃった」と。
 
翌朝、ぼくは意識を集中して夢に入った。
 
そして、ついに訊ねた。
 
「君は、夢の中の存在なの? それとも、本当に“どこか”にいるの?」
 
彼女は静かに笑って言った。
 
「あなたが私を観測するまでは、私はどこにも存在しなかった。でも、あなたが私を見ることで、私はここに“いる”ようになるの」
 
ぼくは言葉を失った。彼女は続ける。
 
「私たちは、量子もつれのペアみたいなもの。あなたがここにいるから、私もここにいるのよ。でも、それはいつだって不確定なの。あなたが目を逸らせば、私は消える」
 
その言葉が、現実よりも現実味を帯びていた。
 
日々が過ぎるたび、ぼくは夢の中の彼女を強く“観測”しようとした。もっと長く、もっとはっきりと彼女を見たいと思った。
 
そしてある晩、夢の中の彼女が、はじめて涙を流した。
 
「そろそろ、お別れなの。あなたが“本当の観測”をする準備が整ったから」
 
「本当の観測?」
 
「あなたが目覚めた現実も、すべては投影。ホログラムのようなものなの。でも、私と出会ったことで、あなたはもう一歩先へ進める。情報面の向こう側へ」
 
「行けば、また君に会えるの?」
 
彼女は微笑んで、首を横に振った。
 
「私は“観測”のための存在だったから。あなたが私を必要としなくなったとき、私は意味を失う。でも、それでいいの」
 
目が覚めると、霧の部屋も彼女も、もう夢に現れなくなった。
それでも、ぼくの心には、彼女がいた。いや、「観測した」という事実が、ずっと残り続けていた。
 
——つまり、彼女はもう、ぼくの中に「存在している」のだ。
 
そして今、ぼくは量子情報の研究者になった。
 
だれにも理解されない研究に没頭しながら、ただひとつの確信を持っている。
 
——宇宙は情報でできている。
 
——そして、その情報は、誰かが「見る」ことで、初めて現実になる。
 
たとえば、愛のように。夢のように。
 
そして、あの少女のように。
 
この宇宙は、きっとまだ誰にも「観測」されていない想像で満ちている。

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