#193 散歩の達人

ちいさな物語

僕の夢はシンプルだった。何か一つの道を極めること。

今、目指しているのは散歩の達人。人間の散歩、犬の散歩、どんな散歩でも完璧にこなしたかった。

ある日、究極の散歩道があると噂される森を訪れた。入り口には『あらゆる散歩者を歓迎する』という心躍る看板。

「これは……キタな」

一歩踏み入れた瞬間、僕は肌でびりびりと感じた。柔らかく弾む地面、やさしく流れる空気。なるほど、極めた者にふさわしい道だ。僕はひとり、意気揚々と歩き始めた。

歩き出してすぐ、不思議な光景に出くわした。犬の散歩をする女性、猫を散歩させる老人、さらにはハムスターを散歩させる少女までいる。

「これは……幅広いな……」

この道はやはり深い。まだまだ未履修のことが多すぎる。感心していると、後ろから低い声がした。

「きみ、なかなか良い散歩姿だね」

振り返ると、スーツ姿のダンディな紳士が立っている。

「この散歩道の管理人だ。この道では、あらゆる散歩が認められている。きみは、見たところ、随分と高みを目指しているようだね」

「もちろん、最高の散歩人を目指しています」

僕が言い切ると、紳士は微笑んだ。

「では、この道を進みなさい。究極の散歩がこの先にある」

その言葉に背中を押され、僕はさらに進んだ。周囲の景色は刻々と変わり、まるで散歩者を飽きさせないように工夫されているようだった。

途中、犬が僕の横を歩き始めた。野良犬らしいが、優雅で美しい足取りだ。犬といえどもあなどれない。

「きみも散歩のプロかい?」

犬はにやりと笑った気がした。さすが究極の散歩道だ。

しかし、次第に道は険しくなった。急な坂道、狭い橋、ぐるぐると回る迷路のような道。汗だくになりながら僕は自問した。

「散歩の極みとは一体……?」

僕は自分自身と対話しながらその道を歩き続けた。道の終点には何かがある気がしたからだ。

やがて僕は最奥の広場にたどり着いた。清々しい空気、鳥の声、やさしい風。どこからかせせらぎの音が聞こえてくる。そしてそこにはあの管理人が微笑んで待っていた。

「おめでとう。君は真の散歩人だ。あらゆる状況を歩き切った」

「これで――極めたといえるのでしょうか」

管理人はゆっくりと首を振って、静かに言った。

「どの道でもそうなんだが、極めるということはない。極めたと思ったとき、きみの成長はとまる。これからも心から散歩を楽しめるように心を鍛えるんだ。さあ、ここまでの散歩道を振り返ってごらん」

僕が後ろを見ると、来た道は平凡な一本道になっていた。険しかった道のりは、僕の心の中だけに存在していたらしい。

僕は笑った。散歩道が教えてくれたのは、極みとは目的地ではなく、その過程を楽しむ心そのものだったのだ。

「先生と呼ばせてください」

僕はその場で膝をついた。この人についていけば、散歩の道のいただきに立てる。

だが、管理人氏はまたゆっくりと首を振った。

「きみはもうプロの散歩人だ。私が教えられることはないよ。これからもこの散歩道をつかって邁進しなさい」

理由はわからないが、僕の頬に涙が伝った。

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