#200 チワワのいる部屋

ちいさな物語

「本当に、この家賃でいいんですか?」

僕が何度目かの確認をすると、不動産屋の男性はやや面倒くさそうに頷いた。

「はいはい。告知事項ありってだけで、リノベーションしてるから中はきれいだし、立地もいいでしょ」

見た瞬間、即決だった。駅徒歩三分、2DKで家賃は相場の半額。築年数は古いが内装はリフォーム済み。日当たりもよく、静かで、しかも角部屋。

僕は特に信仰も迷信も持たないタイプの人間だったし、事故物件なんて気にもしなかった。むしろ好都合。そんなの、過去の出来事でしかない。

引っ越しから三日目の夜。風呂上がりにリビングでテレビを観ていると、足元に違和感を覚えた。何かが、柔らかくぶつかったような――

見ると――チワワがいた。

まんまるの目に、ふわふわの毛並み。小さな舌をちょこんと出し、尻尾をふりふりと揺らしている。かわいすぎる。夢かと疑ったが、明らかに実在している。

「どこから入ってきた……?」

戸締まりはしてある。窓も鍵も。確認したが、侵入経路は不明だった。

「……君、どこかの家の子?」

そう尋ねると、チワワはぴょんとソファに飛び乗り、僕の膝にちょこんと座った。そして、何事もなかったように寝息を立て始めた。

翌朝には、いなくなっていた。

けれど、次の夜も来た。その次の夜も。その次も。

毎晩、決まった時間になると、どこからともなくチワワが現れる。そしてしばらく僕と過ごし、眠ると姿が消える。

僕はそのチワワに名前をつけた。モナ。なんとなく、そういう感じがしたからだ。

モナは遊びたがりだった。ソファにクッションを積み上げると、その上からジャンプする。ボールペンを転がすと、それを追いかけて部屋中を駆け回る。ときには僕の使い終えたスリッパをくわえて、ベッドの下に隠したりする。

モナは誰にも気づかれていないようだった。においや声など隣人からの苦情もないのだ。

なぜなら床からほんのわずかに浮いており、足音はまったくしない。鳴くように口を開くこともあるが、鳴き声は聞こえなかった。

ある日、気まぐれにモナの写真を撮ろうとスマホを向けた。

……画面には、何も映っていない。

何枚撮っても、モナのいた場所は空白になっている。影もなければ、反応もない。動画にしても、やはり何も映っていなかった。

なるほど、これが事故物件というものか。

それから、いろいろ調べ始めた。

この部屋、かつて高齢の女性が一人で暮らしていたらしい。飼い犬はチワワだった。近所でも有名な「犬好きのおばあちゃん」で、モナという名のチワワといつも一緒だったという。

モナという名前はいきなり思いついたような気がしていたが、実はモナ自身が僕に名乗っていたのかもしれない。

そして、おばあちゃんは静かに亡くなり、モナも数日後に姿を消してしまったらしい。ここが事故物件ということになったのは、おばあちゃんの孤独死が原因だった。

しかし、生前社交的だったおばあちゃんのご遺体は、すぐに発見され、いわゆる孤独死の部屋にありがちなひどい状況にはなっていない。

モナがどうして消えてしまったのかはよくわからないが、こうやって出てきているのだからそういうことなのだろう。

不思議と、怖くはなかった。むしろ、胸の奥にじんわりとした感情が広がった。

モナは、たぶん探しているのだ。自分の「毎日」を。かつてと同じように、誰かと過ごす時間を。

それなら、僕はそれをあげたいと思った。

モナとの暮らしは、僕にとっても心の救いになっていた。会社でうまくいかなかった日も、体調を崩した夜も、帰宅すればモナがいてくれた。

ある夜、モナが僕の膝の上で眠っているとき、ふと彼女の身体が光に包まれた。金色の埃のような粒子が舞い上がり、空中にしずかに浮かんでいった。

「……ありがと」

そう言った気がした。モナの口ではなく、部屋全体が語ったような、そんな優しい声。

モナはその日を境に、来なくなった。

寂しさはあったけれど、不思議と満たされていた。

それから、僕はモナのことが忘れられず、メスのチワワを迎え入れる計画を立てている。名前はもうミナと決めた。問題は僕が仕事に出ている間、ミナがさみしがるのではないかということだ。

そこで僕は今、ミナのために、在宅で仕事ができる資格の勉強をしている。

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