「本当に、この家賃でいいんですか?」
僕が何度目かの確認をすると、不動産屋の男性はやや面倒くさそうに頷いた。
「はいはい。告知事項ありってだけで、リノベーションしてるから中はきれいだし、立地もいいでしょ」
見た瞬間、即決だった。駅徒歩三分、2DKで家賃は相場の半額。築年数は古いが内装はリフォーム済み。日当たりもよく、静かで、しかも角部屋。
僕は特に信仰も迷信も持たないタイプの人間だったし、事故物件なんて気にもしなかった。むしろ好都合。そんなの、過去の出来事でしかない。
引っ越しから三日目の夜。風呂上がりにリビングでテレビを観ていると、足元に違和感を覚えた。何かが、柔らかくぶつかったような――
見ると――チワワがいた。
まんまるの目に、ふわふわの毛並み。小さな舌をちょこんと出し、尻尾をふりふりと揺らしている。かわいすぎる。夢かと疑ったが、明らかに実在している。
「どこから入ってきた……?」
戸締まりはしてある。窓も鍵も。確認したが、侵入経路は不明だった。
「……君、どこかの家の子?」
そう尋ねると、チワワはぴょんとソファに飛び乗り、僕の膝にちょこんと座った。そして、何事もなかったように寝息を立て始めた。
翌朝には、いなくなっていた。
けれど、次の夜も来た。その次の夜も。その次も。
毎晩、決まった時間になると、どこからともなくチワワが現れる。そしてしばらく僕と過ごし、眠ると姿が消える。
僕はそのチワワに名前をつけた。モナ。なんとなく、そういう感じがしたからだ。
モナは遊びたがりだった。ソファにクッションを積み上げると、その上からジャンプする。ボールペンを転がすと、それを追いかけて部屋中を駆け回る。ときには僕の使い終えたスリッパをくわえて、ベッドの下に隠したりする。
モナは誰にも気づかれていないようだった。においや声など隣人からの苦情もないのだ。
なぜなら床からほんのわずかに浮いており、足音はまったくしない。鳴くように口を開くこともあるが、鳴き声は聞こえなかった。
ある日、気まぐれにモナの写真を撮ろうとスマホを向けた。
……画面には、何も映っていない。
何枚撮っても、モナのいた場所は空白になっている。影もなければ、反応もない。動画にしても、やはり何も映っていなかった。
なるほど、これが事故物件というものか。
それから、いろいろ調べ始めた。
この部屋、かつて高齢の女性が一人で暮らしていたらしい。飼い犬はチワワだった。近所でも有名な「犬好きのおばあちゃん」で、モナという名のチワワといつも一緒だったという。
モナという名前はいきなり思いついたような気がしていたが、実はモナ自身が僕に名乗っていたのかもしれない。
そして、おばあちゃんは静かに亡くなり、モナも数日後に姿を消してしまったらしい。ここが事故物件ということになったのは、おばあちゃんの孤独死が原因だった。
しかし、生前社交的だったおばあちゃんのご遺体は、すぐに発見され、いわゆる孤独死の部屋にありがちなひどい状況にはなっていない。
モナがどうして消えてしまったのかはよくわからないが、こうやって出てきているのだからそういうことなのだろう。
不思議と、怖くはなかった。むしろ、胸の奥にじんわりとした感情が広がった。
モナは、たぶん探しているのだ。自分の「毎日」を。かつてと同じように、誰かと過ごす時間を。
それなら、僕はそれをあげたいと思った。
モナとの暮らしは、僕にとっても心の救いになっていた。会社でうまくいかなかった日も、体調を崩した夜も、帰宅すればモナがいてくれた。
ある夜、モナが僕の膝の上で眠っているとき、ふと彼女の身体が光に包まれた。金色の埃のような粒子が舞い上がり、空中にしずかに浮かんでいった。
「……ありがと」
そう言った気がした。モナの口ではなく、部屋全体が語ったような、そんな優しい声。
モナはその日を境に、来なくなった。
寂しさはあったけれど、不思議と満たされていた。
それから、僕はモナのことが忘れられず、メスのチワワを迎え入れる計画を立てている。名前はもうミナと決めた。問題は僕が仕事に出ている間、ミナがさみしがるのではないかということだ。
そこで僕は今、ミナのために、在宅で仕事ができる資格の勉強をしている。
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