「消える」という選択肢が生まれて、もう十年が経つ。
それは革命だった。誰にも迷惑をかけず、自分の存在をそっとこの世界から取り除くことができる。
特許技術は《ゼロ・プロトコル》と呼ばれ、政府も企業もこぞって推奨した。いわゆる「無敵の人」による事故や事件、自殺なども劇的に減った。
申し込みは簡単だった。身分証明と簡単な健康診断、意思確認の面談。それだけ。
「消えた人」の記憶は、周囲の人々の間からも自然に消去されるシステムとなっている。
家族や恋人すら消えることを選んだ人に関して「最初からいなかった人」とすることができる。本人は痛みを感じず、周りも悲しまずにすむ。
完璧な「消失」だった。
僕のクラスにも、たまに誰かがいなくなった。
席がひとつ、ぽっかりと空く。けれど翌日には、何事もなかったように机も椅子もなくなり、教師もクラスメートも誰も話題にしない。
だけど、僕だけはなぜか覚えていた。ここに、誰かがいたことを。
名前は思い出せない。顔も、声も。でも、確かに一緒に笑った記憶が、胸のどこかに小さく残っている。
昨日まで隣に座っていたのに。弁当のおかずを交換したのに。体育の授業でふざけて怒られたのに。
なぜ、みんな平気な顔をしているんだろう。
学校帰りの坂道で、僕は不意に足を止めた。
歩道の隅に、見覚えのある赤いスニーカーが落ちていた。片方だけ、きれいなまま。
拾い上げると、かすかに、誰かの声が頭の奥でささやいた気がした。
「ごめんね……」
振り返ったが、誰もいない。夕焼けだけが、街を赤く染めていた。
その夜、母に聞いてみた。
「ねえ、僕に兄弟っていた?」
母は笑って首を振った。
「あなた一人っ子でしょう? 何言ってるの」
でも、僕は知っている。かすかな記憶。誰かと取り合ったゲーム機、半分こしたアイスクリーム、誕生日に一緒に歌った歌。
消えてしまった誰か。
次の日、僕は《ゼロ・プロトコル》の窓口に向かった。
受付嬢はにこやかに微笑んだ。
「ご本人ですか? 代理申請ですか?」
「……消えた人を、取り戻すことはできますか?」
彼女はほんの一瞬だけ、表情を曇らせた。
「申し訳ありません。消失は完全です。復元は不可能です」
それでも食い下がった。
「どうして、僕だけ覚えてるんですか?」
彼女は答えなかった。ただ、胸元につけた社章が、微かに光った。
それは∞(無限大)を横に倒したような形をしていた。ゼロが並んでいるようにも見えるし、無限にも見える。どちらでも人間にとっては存在しないも同然だ。
僕は歩きながら考えた。
なぜ、誰も悲しまないのか。なぜ、自分だけが少しだけ覚えているのか。何かの手違いが起こっているのかもしれない。
いや、もしかしてみんな少しだけ覚えているのに、気が付かないふりをしているのか。
もし仮に、少しだけ覚えているのが僕だけだとしたら、そうだったとしたら僕の役目はなんだろう。
そのほんの少しの記憶を忘れないでいること?
でも、忘れられたくて消失した人たちは忘れられるほうが、幸せなんじゃないか?
夜、ベランダから街を見下ろす。
マンションの窓のひとつひとつに、人々の生活の明かりが灯っている。
その中に、もう存在しない誰かの部屋も混じっているかもしれない。
消えた人たちは、どこへ行ったのだろう。ほんとうに、無になったのだろうか。それとも、どこか別の世界で、まだ静かに呼吸しているのだろうか。
僕はそっと目を閉じた。
胸の奥で、かすかに誰かの笑い声が聞こえた気がした。
きみのいない街で、僕は今日も歩いている。
君のことをほんの少しだけ覚えている、たったひとりの存在として。
#201 新しい選択

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