#209 殺人犯の声

ちいさな物語

その能力に気づいたのは、駅のホームだった。

残暑の厳しい日差しの中、僕は自動販売機でコカ・コーラのペットボトルを買った。
シュッと開けた蓋の音と共に、炭酸が弾ける音が心地よく耳に響いた。

「……電車遅いな、また遅刻しちゃうよ」

誰かが呟く声が聞こえた気がして振り向いた。
隣には大学生らしき男が立っており、彼の手には僕と全く同じコカ・コーラがあった。だが、彼は何も言っていない。

おかしいな、と再びペットボトルを口にしたとき、また声が聞こえた。

「なんで昨日あんなこと言ったんだろう。謝らなきゃ……」

やはり隣の男からだった。しかし、今度も彼の口は動いていない。奇妙な感覚だったが、偶然だろうとその時は思った。

ところが数日後、僕は再び同じ現象を体験することになった。今度はコンビニでパンを買った時だった。ふとパンを手に取ると、複数のざわめくような声が聞こえてきた。

「今日もバイト面倒くさいなぁ……」

「パンじゃなくて弁当にすればよかったかな」

「財布忘れたかも……どうしよう」

僕は店内を見渡した。同じパンを手にしている客が三人いる。誰がどの考えを発したのか、まったく判別できなかった。

僕には、どうやら『同じ物を持つ人の思考を感じ取る能力』があるらしい。

初めは困惑したが、次第に僕はこの能力を楽しむようになった。

あるとき、本屋で買ったばかりの雑誌を手に取った瞬間、「うわ、これ面白くなさそう。失敗したかなぁ」という誰かの心の呟きを聞いた時は、思わず声を上げて笑ってしまった。

しかし、この能力は必ずしも楽しいことばかりではなかった。

ある日のことだった。僕は会社帰りの混雑した駅で、再びコカ・コーラを買った。
冷えたボトルを手に取った瞬間、強烈な思考が僕を襲った。

「今日だ。あいつを殺すのは、今日しかない。それから、もう一人はまた後日――」

背筋がゾッとした。駅のホームを見渡すと、同じペットボトルを手にした人が五人もいた。OL風の女性、若い男性、高齢の男性、学生、スーツ姿の中年男性――誰がこの恐ろしいことを考えているのかわからない。

僕は動揺し、手の震えが止まらなかった。警察に駆け込んだとしても、証拠は何もない。混乱したまま家に帰ったが、あの呟きが頭を離れなかった。

翌日、ニュースを見た僕は言葉を失った。
僕が昨日立っていた駅で殺人事件が起きていたのだ。ある男性が線路に突き飛ばされたのだ。混雑時で、防犯カメラにもちょうど映らないところで起こった犯罪だった。

それから僕は、この奇妙な能力を厄介なものとして意識し始めた。そして何かを手に取るたびに、周りに同じものを手にしている人はいないかと恐怖を感じるようになった。

ある日の帰り道、再び駅のホームで僕は意を決して同じペットボトルを購入した。
もう一度あの殺意を拾うのは怖かったが、もし事前にとめられるならと思ったのだ。犯人がまた同じペットボトルを手にするとは限らないが、もう一人手にかけるようなことを考えていたようなので、何もしないでいるのは落ち着かなかった。

しかし今回は、静かな心の声が響いた。

「え? あなたにも聞こえているの?」

振り返ると、一人の女性が僕を見つめている。同じコカ・コーラのペットボトルを持っていた。あの、殺人犯の思考が流れてきたときに近くにいたOL風の女性だった。

「……君も?」

僕が口を開くと、女性は小さく頷いた。

二人で話すうちに、彼女――由美もまた僕と同じ能力を持っていることがわかった。
彼女もまた、誰のものかわからない思考を拾ってしまうことに苦しんでいた。

僕たちはあの日の出来事について話し、一緒に対策を考えることにした。だがその直後だった。二人同時に、再び強烈な殺意が伝わってきたのだ。

「もう一人は、今日殺す」

由美の顔が青ざめる。僕も動揺を隠せなかった。

僕たちは何気ない様子を装い、辺りを見る。同じペットボトルを持っている人は二人いた。カジュアルな服装の若い男性とスーツ姿の中年男性だ。二人とも、あの日も近くにいた。

「どっち?」

由美が不安げに問いかける。

「わからない。わかったところで――どうしたらいいんだ?」

「二人とも見張ればいいんじゃないかしら」

しかし、その日は何も起こらなかった。二人の男は次の電車に乗っていってしまい、僕らはしばしそこで様子を見ていたが、特に何も起こらなかった。

翌朝、テレビをつけると駅での殺人事件のニュースの続報が流れていた。

「あ、あの男」

逮捕されたのは、昨夜見張っていたスーツ姿の中年男性の方だった。職場でのトラブルから上司と同僚の命を狙っていたようだ。先日の駅での事件後、警察にマークされていたようで、同僚男性に刃物を向けたところを、あっさり現行犯逮捕されたとのニュースだった。ちなみに今回狙われた男性は無事だった。

自分たちが変な使命感にかられていたことが滑稽に思えてきた。この能力は中途半端すぎて全然人の役には立たない。

それから僕と由美は、その能力を制御する方法を探したが、うまくいかなかった。

結局、僕らにできるのは他人と同じものを、あまり持たないように注意することくらいだった。

同じ悩みを持つ者同士で距離が縮まり、やがて僕らは共に生活を始めた。

相変わらずこの能力には悩まされているが、僕と由美はあえて同じものを持つことで、声に出さずにコミュニケーションを取ることができることに気づいた。

それに嫌な思考を聞いてしまわない場では情報収集にも使える。たとえば、気になっているコンビニの新商品を手にしている人の横で同じ商品を手にすると「これ、昨日食べたけど、おいしかったな」とか、「CMでは良さそうに思えたけど、量が少ないな」とか、気になる情報や感想をもらしてくれたりする。

そんなこんなで僕と由美は、なんとかこの能力と共存する方法を模索しながら暮らしている。

公共の場で何かを手にする場合、こういう能力を持つ人間が世の中にいるということを頭の片隅に置いておいてもらえると、いいかもしれない。

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