#213 神さまの座布団

ちいさな物語

これはの、わしのばあちゃんが、そのまたばあちゃんから聞いたという話じゃ。

昔々、山のふもとに「木長こなが村」っちゅう、小さな村があったんじゃ。田んぼと畑と、ちょっとした神さまがおるだけの、静かなところじゃった。

この村ではな、毎年秋になると「神さまの座布団まつり」っちゅう、不思議な行事があるんじゃ。村のもんが一人ひとつずつ、自分にとっていちばん大事なもんを持ち寄って、それを山の神さまに捧げるんじゃよ。

「おおごとじゃのう、生贄いけにえか?」って、そう思うかもしれん。

でもの、村のもんが捧げるのは命じゃない。“心のよりどころ”、つまり「自分が強く執着しとるもん」なんじゃ。

ある年のこと、若い鍛冶屋の男が、こんなことを言うたんじゃ。

「わしはこのつちがなきゃ何もできん。でも、それに頼りすぎとる気がするんじゃ。だから、今年の祭りではこの槌を神さまに預けることにする」

そう言って、その大事な槌を木箱に包んで、座布団の上にそっと置いたんじゃ。

ほかの村のもんも、鏡とか、使い込んだ茶碗とか、子どもが初めて描いたへたくそな絵とか、そんな“心がこもっとるもん”を持ってきてな。

それを山のやしろの前にある、大きな座布団に乗せるんじゃよ。まぁ、乗りきらんくらいたくさんあるけど、それでもみんなどんどん置いてゆくんじゃ。

不思議なことに、祭りが終わると、その座布団は毎年ほんのすこぉしだけ、あったかくなっとるんじゃ。まるで神さまが、そこに腰かけて祭りの様子を見ておったみたいにのう。

それを見ると村のもんは、胸のなかがふわぁっと軽ぅなって、

「ああ、手放しても大丈夫じゃった」って、安心するんじゃ。

「それって、結局は心の整理か?」って、そう聞きたいんじゃろう?

ほぉじゃな。今の言い方をするなら、まさにそういうことかもしれん。人間な、何かを手放すときには「意味」が欲しいんじゃ。そして、その意味を誰かがちゃんと受け取ってくれた、わかってくれたと思えたら、人は救われるんよ。

神さまの座布団いうのは、まさにそういう場所なんじゃ。

わしのひいばあちゃんも、よう言うとった。

「昔は戦があってな、本当に『人』を神さまに捧げたこともあったらしい。でも、あるとき村の誰かが言うたんじゃ。『神さまは、痛いもんより、温かいもんが好きじゃろう』ってな」

いまの時代はどうかのう。人は神さまにじゃのうて、“物”に心を捧げとるような気がする。自分をすり減らして働いて、夢をあきらめて、我慢して、そうやって日々を過ごして、それを「当たり前」やと思うとる。

でもそれ、本当に必要なことなんじゃろうか。

もし何かを捧げるんじゃったら、心のなかにある「執着」のほうがええ。

さぁて、お前さんにもあるじゃろう?

ずっと大事に抱えてきたけど、もうそろそろ手放してもええかもしれん、そんなもんが。

それを想像してみなされ。古ぅなった座布団の上に、そっと置くんじゃ。すると、風が吹いて、山がうなずいて、心がちょっとだけ軽ぅなる。

それが、本当の意味での「捧げもん」なんじゃろうな。

ほい、これが木長村に伝わる「神さまの座布団」の話じゃ。昔話にようある不思議が、今の暮らしの中にも静かに続いとるんじゃよ。忘れんように、胸の片隅に置いといてくれたら、わしゃ嬉しい。

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