#215 額の刃

ちいさな物語

この町の人々は、めったに怒らない。

満員電車で押されても、店員に無視されても、上司に理不尽なことを言われても、口元をひきつらせて、じっと堪える。

なぜなら、「キレる」と、額が割れるのだ。

バカな話のように聞こえるが、実際にそうなる。

ひび割れた額の中央から、ぬるりと光る出刃包丁が一本、まっすぐに突き出る。鋼のように硬く、何かを切り裂くために生まれたような、鈍い殺意を孕んだ刃だ。

この奇妙な現象は、ある日を境に突然始まった。政府も医師も科学者も原因を突き止められず、今では「額割れ症候群」と呼ばれている。発症は怒りと連動しており、激昂のピークを迎えた瞬間、ぱきん、と額の皮膚が裂けて刃が出る。

飛び出した刃は、本人の意識とは無関係に振るわれる。隣人を、恋人を、そして自分自身を傷つける。その後、刃はすっと額に戻り、何事もなかったように皮膚が塞がる。傷跡ひとつ残らない。

町は、静かになった。怒りは、タブーだ。

感情は抑制され、笑顔の下には不安と緊張が積もる。

怒鳴る教師はいなくなり、クレーム客は絶滅した。恋人たちの喧嘩は無言で終わり、上司の説教は長くて冷たいメールに変わった。

それでも、刃は出る。

耐えがたい怒りを飲み込んでも、抑えきれなければ、額が割れる。

私は役所勤めの事務員だ。

今日も窓口で、理不尽な書類の不備に怒鳴る老人に、深々と頭を下げた。自分が怒ってはいけないし、怒っている人をさらに怒らせるのは、冗談ではなく大怪我をする危険がある。

その帰り道、スーパーのレジで順番を抜かされた。

「ちょっと、並んでましたよ」と、静かに言った瞬間、男が舌打ちした。

「うっせぇな、細けぇこと気にしてんじゃねえよ」

その言葉が、頭のどこかで火をつけた。

カッとなった。

ぱきん。

視界が、赤く染まる。

男の肩から血が噴き出し、人々の叫びが響いた。

私は、額に触れた。

何も、出ていない。

ただ、何かが――確かに、出た気がした。

私の額からではない。男の額からだ。

彼も、キレたのだ。

私の言葉に。私の怒りに。

彼の額が、先に割れた。

これは連鎖なのだ。

誰かが怒りをぶつければ、別の誰かの額が割れる――そんなこともある。怒りは飛沫のように伝染し、いつか、町を血に染めるかもしれない。

私は立ち尽くす。

すぐに警察が来るだろう。しかし「額割れ症候群」で人を傷つけてしまった場合、不起訴となることが多い。殺意はなかったし、傷つける意思すらなかった。腹が立っただけ。

過去に一件、故意に「額割れ症候群」を発症させたと認定された「殺人事件」がありニュースになったが、本当に稀なケースだ。しかも今回は完全に彼の自滅である。私が罪に問われることは一切ない。

でも、心の奥で、少しだけ――笑っている自分がいた。怒った方も怒らせた方も悪い。

今やアンガーマネジメントは意識が高い人たちだけのものだけではなく、自身の身を守る必須トレーニングとなった。

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