#216 あの角を曲がると、自販機がある

ちいさな物語

その自販機は、決まって夜中の二時過ぎにしか現れない。

駅から少し離れた住宅街の裏路地。昼間に歩いても、そこに自販機などない。ただのブロック塀と、ゴミ集積所と、草の伸びた空き地があるだけだ。

だが、ある夜、私は残業帰りにその道を通った。ふと、曲がり角に柔らかな光が灯っているのが見えた。近づいてみると、そこには古びた赤い自販機がぽつんと立っていた。

けれど、少し様子がおかしい。

「夢(YUME)」
「記憶(KI-OKU)」
「声(KOE)」
ボタンのラベルに書かれているのは、飲み物の名前ではなかった。

試しに百円玉を入れてみた。チャリン、と音がして、ボタンが光る。私はなぜか迷わず「声」を押した。機械の中からゴウンと重い音がして、缶が一つ転がり出てきた。

無地の銀色の缶。ラベルも何も書かれていない。ただ、指先に触れると、ほんのり温かい。

恐る恐る開けて、口をつけた。

――次の瞬間、自分の口から誰かの「声」が漏れ出した。それは明らかに自分の声ではなかった。年老いた男の声だった。悲しみと諦めがにじんだ、誰かの告白。誰かが生涯、誰にも言えなかった後悔。

私は震えた。缶を落としそうになりながら、なんとか飲み干すと、すべてが静かに収まった。味は特にしなかった。

翌朝、自販機は跡形もなく消えていた。

それから数日、私はその角を何度も通ったが、何も見つからなかった。

けれど、ある晩、再び自販機は現れた。今度は「夢」を選んだ。缶に口をつけた途端にすっと意識が遠のき、そのときに見た夢は、知らない誰かの人生。誰かの幼い日の笑顔、母の手の温もり、そして唐突な別れ。まるで一本の映画のように流れ込んできた。気づくと缶を持ったまま立ち尽くしていた。時計を見ると1分も経過していなかった。

その夜、私は泣いた。何に対しての涙かは、自分でもわからなかった。

以来、私はその自販機に通うようになった。「記憶」も、「秘密」も、「音楽」も選んだ。中には甘く切ないものもあったが、吐き出したくなるようなものもあった。ある缶には「自分ではない誰かの死」が入っていた。

不思議なことに、私の心の奥に何かが少しずつ変化していく気がした。名前も知らない誰かの人生の断片に触れるたび、大きな困難や悲しみ、それを乗りこえた喜びなど、ドラマの多い人生にわずかな憧れが芽生えはじめた。

けれど、昨夜は違った。

自販機に並ぶボタンの一番下に、新しいラベルが増えていた。新商品だ。

「あなた」

私は反射的にそのボタンを押してしまった。

出てきた缶は黒かった。どこまでも深く、吸い込まれそうなほど黒い。飲んだ瞬間、目の前に自分が立っていた。泣いている自分。怒っている自分。笑っている自分。見て見ぬふりをしてきた自分自身のすべてが、映し出された。

これまで触れてきた様々な人達の人生に比べて、なんて面白みがないのだろうか。

勉強もそこそこ、運動もそこそこのまま成長し、特に趣味はなく、言われるままに大学に行き、就職し、周りがやっているから疑問も抱かずに残業をする日々。

このままで、こんなに面白くない缶で、いいのだろうか。

気がつくと、朝だった。自販機はまた消えていた。私はそのまま出社し、辞表を提出した。これから何をするのかはまだ決めていない。

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