#217 夢屋ユメコ

ちいさな物語

 「こちら、お客様の今夜の夢チケットになります」

カウンターの奥から女性が差し出してきたのは、淡いピンク色の厚紙だった。“初恋リピート夢:シナリオ型/記憶連動モード/時間:90分” と印字されている。

夢を選んで眠る。

それは今や、都会で働く人々の間では当たり前の贅沢になっていた。日々のストレス、過去の後悔、現実の苦しみから一時でも逃れるため、人々は「ユメコ」――夢を販売する専門店に列を作る。

私は最初、一度くらい試してみようかという軽い気持ちで、この店に入った。けれど、選べる夢はあまりにも魅力的で、たちまちハマってしまった。過去の記憶に基づく「もう一度あの夏」や、まったくのフィクション世界「空飛ぶ郵便局」など、まるで夢が映画のように並ぶ。

初めて見た夢は美しかった。

夕焼けの浜辺で、かつての恋人と何度も再会し、言えなかった言葉を伝えられた。起きたあと、胸が痛むほどの幸福感と、切なさが残った。

それから私は、毎日のようにユメコに通った。

現実では疲れていた。仕事は単調、友人との会話も上の空。でも夢の中では、私は女優にも魔法使いにもなれた。死んだ祖父にも会えた。

ある日、店員が小さく忠告した。

「夢には、本来“記憶の整理”という大切な機能があります。カスタム夢を見続けると、そのバランスが崩れることもありますので、適度なご利用をおすすめします」

だが、私はやめなかった。

現実が薄くなるのを感じていた。会社の書類をうっかり捨てたり、友人の誕生日を忘れたり、電車に乗ったのに目的地を思い出せなかったり。

それでも、夢の中ではすべてが完璧だった。

ある日、目覚めたあとも、私はまだ夢の中にいるような気がしていた。部屋の時計は動かず、外の景色はぴくりとも変わらない。鏡の中の私は、表情を持っていなかった。

仕事に行こうとして外に出ると、そこは知らない町――のような気がした。

私はようやく、気づいた。これは夢の“後遺症”なのだと。

夢を見すぎた人間は、夢に現実を吸い取られていく。記憶も思考も、まるで夢の中の霧のように薄れていく。

私の名前は……なんだっただろう。それすらも、もう思い出せない。

それでも、毎晩、ユメコのチケットで夢を見る。そこは今夜も、「忘れたい現実」から遠く離れた「望んだ夢」をいくらでも選べるのだから。

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