「靴を脱げ、勇者よ!」
長老の真剣な声が響くと、僕は困惑した表情で自分の足元を見た。
靴?
「早く、その靴の臭いで世界を救うのじゃ!」
「いや、待ってくださいよ。何を言ってるんですか?」
そう言い返した僕の前に、黒い霧のような怪物が迫ってきた。目の前には長老と村人たちが怯えた様子で見守っている。
僕はつい先ほど、この異世界に召喚されたばかり。突然の「勇者」呼ばわりに加えて、まさか靴の臭いで戦えなんて、ひどい悪夢だ。
「他に手段はないのじゃ!」
なんでだよ。剣とか魔法とかないのかよ。
長老の切迫した言葉に押され、僕はしぶしぶスニーカーを脱いだ。その瞬間、辺りに強烈な臭気が充満した。
「くっさ!」
村人たちが鼻を覆う。失礼極まりない。
だが、驚くべきことに、その黒い霧の怪物は、苦しげにのたうち回り、悶絶し、そのまま消え去ってしまったのだ。
「すばらしい……」
長老は安堵のため息をつき、満足げに頷いた。
「やはり伝説は本当じゃった。臭き足を持つ者こそ、この世界を救う勇者だったのじゃ!」
――いや、嬉しくないし、全然褒められてる気がしない。
どうやらこの世界には、『足の臭いが弱点』という、まったく意味不明な怪物が現れ、人々を恐怖に陥れているらしい。僕はたまたまその対抗手段を持つ『勇者』として、現代から召喚されたようだった。
それからというもの、僕の靴は最強の武器として重宝された。異世界の魔物が出現するたびに、僕は靴を脱いで悪臭を放ち、敵を撃退した。
しかし、戦えば戦うほど僕は虚しくなっていった。周囲からは感謝されるが、そのたびに鼻をつままれ、明らかに距離を取られている。
「くさい勇者、ばんざーい!」
子供たちは僕をからかいながら走り去る。僕はため息をついた。ある日、僕はついに耐えられなくなり、長老に訴えた。
「僕はもっとかっこいい戦い方をしたいんです! 剣とか、魔法とか、そういうのないんですか?」
長老は真剣な顔で頷いた。
「確かに、その気持ちはわかる。しかしな、お主の臭い足は我々の命を救っておる。誇りを持て」
「誇り……」
複雑な気持ちで村を歩いていると、突然、巨大な怪物が村を襲ってきた。その怪物は今まで見たこともないほど巨大で、黒い影が天を覆っている。
「勇者よ、頼む! あれは魔王じゃ!」
村人たちの悲鳴が響いたが、魔王のあまりの恐ろしさに、靴を脱ぐのをためらった。だが、逃げるわけにもいかない。
僕は覚悟を決め、靴を脱ぐ。
だが、どうしたことだろう。怪物はまったくひるむ様子がない。それどころか、ゆっくりと僕に近づいてくる。
「臭いが効かない!?」
僕はパニックになったが、怪物は僕の前で止まった。
そして、低い声で静かに言った。
「その程度か、勇者よ……」
「喋った!?」
「お前の臭い靴など、私には効かぬ。その程度で勇者とは、片腹痛いわ」
僕は震えながら、今度は靴下まで脱いだ。その瞬間、史上最悪の臭いが辺りに広がった。
村人は一斉に後退り、魔王も苦悶の表情を浮かべる。
「ぐあああ……こ、これは臭い……!」
怪物は激しく苦しむ。それでもなお僕の前に立ちはだかっている。
「ま、まだだ。この程度の臭いでは……」
怪物は息も絶え絶えに巨大な鉤爪を振り上げた。僕は靴下をその鼻先に投げつける。
ぐおぉおおおぉ!
大きな声をあげてのたうち回る怪物。しかし、さすが魔王というべきか、まだ生きている。このままでは、しばらくすれば回復してしまうだろう。
「ちょっと待ってろ。すぐに楽にさせてやる」
僕は裸足のままスニーカーに足を突っ込んだ。村人たちから「ヒッ」という悲鳴があがる。
そのまま僕は数時間、肉体労働をした。
素足にスニーカーで木材を運んだり、謎の歯車を駆け足で回して、畑を耕し、牛を引き、反復横跳びをしてたっぷりと汗をかいた。
「待たせたな、魔王」
すでに足元からは強い臭気が立ち上っている。
「な、な、なんと禍々しい」
魔王がそれを言うのか。
「くらえ!」
僕はスニーカーを脱ぐと、魔王に向かって投げつけた。
右、そして左。それは両方とも魔王の鼻先にクリーンヒットする。
ぐっわあああぁああ!
すさまじい断末魔の悲鳴をあげ、とうとう魔王は霧のように消え去った。
静まり返った村人たちの前で、僕は裸足で立ち尽くした。だが次の瞬間、割れんばかりの拍手が起こった。
「勇者よ! 素晴らしいぞ!」
長老が興奮して叫んだ。村人たちも口々に僕を称えた。
「やはりお主こそ真の勇者じゃ!」
複雑な心境ではあるが、その日を境に僕の扱いが変わった。
村人は敬意を持って距離を保ちつつ僕を讃え、僕自身も次第にこの能力を受け入れていった。
それから数ヶ月後、すべての怪物が姿を消し、世界に平和が戻った。帰還の日、長老は感謝の気持ちとして僕に新しい靴を渡した。
「これは臭いを抑える魔法がかかった靴じゃ。お主がもう普通の生活に戻れるようにな」
その靴を履くと、不思議なほど快適で臭いはまったくしなくなった。実のところ、現実世界の方でも足が臭いという悪評により、家族はもとより、友達、恋人にまで距離をとられる有り様だった。
家に帰ると知らない間に自分の靴にだけ、石灰のような白い粉が山盛り盛られているのは日常茶飯事だ。
そんな生活を経て、僕はようやく普通の人間として生きられると思ったが、少しだけ寂しさも感じた。
「あれだけ嫌だったのに、何故だろうな」
僕は再び平凡な毎日を送っている。
今でも時々、あの奇妙な世界と臭い靴のことを思い出しては、密かに微笑んでいる。
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