#220 現代版・稲生物怪録

ちいさな物語

最初に部屋に現れたのは、髪の毛をだらりと垂らした若い女だった。

深夜の一時、男はベッドでスマホの画面を眺めていた。部屋の隅から女が這い出し、ゆっくりと近づいてくる。

だが、男はスマホをスクロールしながら、彼女にちらりと目をやっただけで呟いた。

「ああ、貞子系か。珍しくもないな」

女は少し動きを止め、戸惑った様子で首をかしげた。

「……怖くないの?」

「いやー。よくいるからな。似たようなのが」

彼の名は大野修一、三十歳の会社員である。ごく普通のサラリーマンだが、ひとつだけ人と違う点があった。それは何故か毎晩、奇妙な化け物が彼のもとに現れるということだった。

翌日は、テレビが勝手に点いて、真っ白な画面に人影が浮かび上がった。

『お前の……後ろに……』

彼は無言でテレビを消した。

その次の日には、スマホに非通知の番号から大量の着信があり、低く呻くような声で囁かれた。

『死ね……』

彼はため息をついてスマホの電源を切ると、充電ケーブルにつないだ。

「充電しとこ」

それからも毎晩、異変は続いた。

冷蔵庫から謎の手が伸び、窓に顔だけが貼り付いて睨みつけ、天井からは人の顔をしたシミがにじみ出る。

しかし、修一はいつも冷静だった。

「ああ、今年も冷蔵庫から手が出る季節か」

「窓の顔は雨の日限定なのかな?」

「シミは――厄介だな。また壁紙の貼り直しか」

ある夜、ベッドの下から幽霊が這い出してきたときには、修一は逆に質問した。

「なんで毎日来るの? 他に行くとこないの?」

幽霊は困ったように視線をさまよわせた。

「いや、その……100人の人間を怖がらせると、いいことあるって噂で……」

「何それ。運動会みたいなもの? 迷惑〜」

「ですよね……」

次第に物怪たちの方が戸惑い始めた。

ある晩、集合した物怪たちは、修一が帰宅する前に作戦会議を始めた。

「どうしてあいつは怖がらないんだ?」

「俺は渾身の演出をしたんだがな」

「逆に俺たちが怖がりそうだよな」

深刻に悩む彼らの中で、貞子系の女が口を開いた。

「もしかしたら、彼自身が最も恐ろしい存在なのかも」

物怪たちはざわめいた。

「いや、だってあいつ普通の会社員だぞ」

「でも、あれだけ無反応だと俺らは消滅しそうだ。早く100人の人間を怖がらせないと」

その日の夜、修一が帰宅すると、彼の前に物怪たちが整列していた。

「あれ? 一斉に出て来た」

修一は驚きもせずに、靴を脱ぎながら言った。貞子系の女が一歩前に出た。

「お願いがあるの。怖がらない理由を教えて」

修一は呆れながら答えた。

「別に怖がらないわけじゃない。ただ、会社のパワハラ上司やモンスタークレーマーに比べれば、お前らなんて大したことないんだよ。毎日あんな現実に耐えてると、こんなのはかわいいもんさ」

物怪たちは唖然とした。人間の会社というのはいつの間にそんなひどい場所になったんだ。

物怪たちはここの住人を怖がらせるのは無理だと観念して、よそに移動したのだった。

久しぶりに修一は安眠を得た。

ところが、数日後の深夜、また誰かが部屋に入ってくる気配がした。

修一が振り返ると、そこには幽霊の女が申し訳なさそうに立っていた。

「あれ? もう来ないんじゃなかったの?」

「私たち、困ってるのよ……」

修一は眉を寄せた。

「何を?」

「100人の人間を怖がらせたいのだけど、今は行く場所がなくて」

どうやら物怪たちは、行く先々で除霊等の対策をされてしまい、居場所がなくなってしまったようだった。

昨今はSNS、動画配信サービスなどで、盛り塩の作り方や素人でもできる簡単な除霊方法が広まっている。また通販で簡単に神社の御札を購入できてしまうのだった。

「で、なんで俺のとこ?」

「ここなら『お化けだ〜』って、大騒ぎする人がいないから楽なの」

もはや物怪たちが何を目的としているのかわからなくなってくる。修一はため息をついた。

「仕方ないな、邪魔をしないならいいぞ」

「本当? 助かるわ!」

それから毎週金曜日の夜、修一の部屋では物怪たちが穏やかに、線香の煙を吸って「成仏する〜」と笑いあったり、仏飯をシェアしたりして過ごしている。

彼らは時々、義理で少しだけ脅かすが、修一は当然のようにスルーした。

そんな日々を送っているうちに、修一は自分の仕事のストレスも少しずつ和らいでいるのに気がついた。

ある晩、修一は笑いながら物怪たちに言った。

「お前らが来るようになって、俺もちょっと楽しくなってきたよ」

「じゃあ、今度、俺たちのボスの『魔王』にも会ってくれよ」

物怪たちが切り出すと、修一もまんざらではなさそうに「まぁ、いいよ」と笑うのだった。

現代版稲生物怪録――。

怖いはずの物怪が癒しになってしまう、奇妙な時代になったものだと修一は思った。

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