#222 空間のひずみに落ちた人たち

ちいさな物語

「ここは空間のひずみに落ちた人たちが、とりあえず集まる場所です」

目を覚ましたとき、私は灰色の部屋のソファに座っていた。目の前に座る男性が穏やかな口調で告げた。彼は上品なスーツを着て、眼鏡越しの瞳は優しく輝いている。

「空間のひずみ……って?」

私は状況が飲み込めず困惑して尋ねた。

「ええ、たまにあるんですよ。道を歩いていて気づいたら全然違う場所にいた、ということが。あなたもそうでしょう?」

言われてみれば確かにそうだ。家に帰る途中、視界が一瞬揺らぎ、次に目を開けたらここにいた。

「ここは相談所と呼ばれています。私の名前はカナイ、ここで相談役をしています」

カナイは温かな笑みを浮かべて名乗った。私は戸惑いながらも、ひとまず自己紹介を済ませた。辺りを見回すと、相談所の中には私以外にも何人かの人がいて、それぞれ静かに話をしている。中には老人も子どももいる。まるで待合室のような奇妙な空間だった。

「帰る方法はあるんですか?」

私の質問にカナイは優しく頷いた。

「ええ、大丈夫。あなたの元の世界と接続する出口はきっと見つかります。それまではここで過ごしてください」

それから数日、私は相談所で暮らすことになった。最初は落ち着かなかったが、すぐにここでの奇妙な日常に慣れ始めた。

この相談所には様々な人がやってくる。ある日、赤い帽子を被った老人がやって来た。

「昨日まで妻と旅行をしていたはずなのに、気づいたらここにいたんだよ」

老人はそう言いながら笑ったが、その目はどこか寂しげだった。

またある日は、小さな女の子が泣きながら訪れた。

「ママと公園で遊んでて、滑り台から降りたらここだったの」

カナイは彼女を優しく慰め、手を引いて別の扉の前へ連れて行った。その扉を開くと、不思議なことに女の子の母親の声が響き、少女は笑顔で扉の向こうへ消えていった。

「扉はどこへ続いているんですか?」

私がカナイに尋ねると、彼は微笑んだ。

「それは本人にしかわかりません。でも、扉をくぐった人は必ず望んだ場所へ帰れます」

そんな不思議な日々を過ごすうちに、私は相談所に来る人々の物語を聞くのが好きになった。

ある日、若い男性がやってきた。彼は深刻な表情でカナイに相談した。

「実は僕、ここへ来る前にひどい罪を犯しました。家に帰るのが怖いんです。帰らないことを選ぶこともできるんですか?」

カナイは静かに頷いた。

「ええ、その選択もあります。あなたは神隠しに遭ったことになるでしょう。しかし、ここにいることがあなたにとって最善の選択になるとは限りません」

カナイの表情はめずらしく硬いものだった。

私も罪を犯したなら、ちゃんと戻って償うべきではないのかと思ったが、口には出さなかった。

「あなたが行くべき場所は、きっと他にあります」

数日後、彼は扉を選び、どこか違う世界へと旅立った。

そしてついに、私自身の扉が現れた。それはある朝、目覚めると壁に突然できていた。カナイがそっと近づいてきた。

「ようやくですね」

「ここにいるのも悪くなかったです」

私は正直な気持ちを伝えた。

「ええ、私もあなたと話すのは楽しかったですよ」

カナイの表情は穏やかだが、少し寂しそうだ。

「あなたは帰らないんですか?」

ふと疑問に感じて尋ねると、カナイは静かに微笑んだ。

「私は元の世界がもうありません。ここが私の居場所なのです」

胸が少し痛んだ。私は名残惜しくも扉を開けた。扉の向こうには、見慣れた自宅の景色が広がっている。

振り返ると、相談所はぼんやりと霞んでいた。

「ここにまた戻ってくることはありますか?」

私は最後に尋ねた。カナイは優しく首を横に振った。

「いえ、二度と来ないほうがいいでしょう。でも、もし来てしまったら、その時はまた話しましょう」

扉をくぐると、私は自分の家の前に立っていた。何もかもが元通りで、相談所にいた日々はまるで夢だったかのようだ。

相談所が実在した証拠は何ひとつ残っていない。ただ記憶の中に、カナイの優しい笑顔と、奇妙で居心地の良かった相談所がはっきりと残っている。

空間のひずみはきっと、いつか誰にでも訪れる。だから私は今日も、どこかで道に迷った人々がカナイに出会えることを静かに祈っている。

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