#225 狐面売りの男

ちいさな物語

祭りの夜は、人々が浮かれているせいか、普段とは違った空気が漂っている。

夏の生温かい風に乗って、屋台から流れてくる甘ったるいベビーカステラの匂いやイカ焼きの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。

僕はひとりで、人混みの隙間を縫うように歩いていた。

毎年この時期、地元の小さな神社で開かれる祭りだ。

特に目新しいものはないけれど、僕はこの祭りがなぜか好きだった。

境内の端に差し掛かったところで、小さな露店が目に留まった。

提灯が一つ、ぼんやりと灯りを放ち、その下に狐面が並べられていた。

店主は狐の面をかぶった男だった。

「珍しいだろう?」

男は面の下からくぐもった声で言った。

狐面はどれも丁寧に作られ、美しい模様が描かれていた。子供向けのおもちゃとは思えない。

中でも一つ、深い赤色で彩られ、瞳が光を宿しているような面が目を惹いた。

「これ、すごい細工ですね」

僕が言うと、男は笑いを含んだ声で答えた。

「気に入ったか。これは特別な面でな、つければ不思議なものが見えるという」

「不思議なもの……?」

露店の売り口上にしては変わっている。男は狐面を手に取り、差し出した。

「君にはこれが似合うだろう」

値段を尋ねると、男は首を横に振った。

「金はいらない。その代わり――いや、何でもない。祭を楽しんで」

僕は差し出された面を受け取った。不思議な感覚に襲われたが、礼を言ってその場を去った。

祭りはますます賑やかになり、浴衣姿の人々が楽しそうに話しながら歩いている。

ふと好奇心が湧き、僕は狐面を顔にあてた。その瞬間、世界が変わった。

音が静まり返り、人々の動きがゆっくりとした幻のように映る。

景色は青白く染まり、祭りの喧騒が遠くへ引き離されたかのようだった。

「なに、これ……」

呆然と辺りを見回すと、人々の間に、半透明の狐たちがひっそりと立っていることに気付いた。

狐たちは人間の影に隠れるように動き、耳を立ててこちらをじっと見つめていた。

突然、背後から声がした。

「見えるか?」

振り返ると、狐面の男が静かに立っていた。

「これは、どういうことですか?」

男はゆっくりと面を外した。その下には端正だがどこか悲しげな顔があった。

「この面をつけるとこの世ならざるものが見える。誰でも見えるわけじゃない。面が人を選ぶ」

男は僕の驚く顔を見て、穏やかに続けた。

「――そして、離さない。私も昔、この面をつけてしまった。以来、こちら側の世界に囚われている」

男は、狐たちのいる世界の方を見つめて言った。

「君が見ている狐は、神の眷属だ。彼らは祭りを楽しんでいるんだよ」

僕はそっと面を外した。途端に世界は元の賑やかな祭りに戻り、狐の姿も消えた。面をつけるとまた視界は青白くなった。

「君に選択権はない——が、逃げることが不可能というわけではない」

男は静かに言った。近くにいた狐が男を非難するように鼻先で小突いた。

「よく考えろ」

僕は狐面を手に、祭りの喧騒の中をゆっくりと歩いた。

あの男や狐たちが自分に何を求めているのか、よくわからない。

考えながら、境内を歩いていると、小さな女の子がしゃがんで泣いているのが見えた。

僕は近寄って声をかけた。

「どうしたの?」

女の子は顔を上げ、目を真っ赤にして言った。

「迷子になったの」

僕は彼女の手を握り、迷子案内所へと歩き始めた。

その瞬間、何気なく狐面をつけた。

狐がいた。女の子の袖をくわえている。女の子の体もなぜか半分青白く見えた。

反射的にその狐を追い払うようにはねのける。

「――では、お前が来い」

その狐が口を開いた。

そういうことか。本当かどうかは知らないが、祭で人が消えたりする話は古くからある。消えた先でどうなるのか、それは誰もわからない。

僕は一度狐面を外した。

「このまま、あの看板のところまで真っ直ぐに行くんだ。それからそこにいる赤い袴のお姉さんに『お母さんとはぐれた』と伝えて。あそこにいれば大丈夫だから」

女の子は泣きながら、こくんと頷き歩き出す。

再び狐面をつけると、数匹の狐たちが僕を取り囲んでいた。あの狐面の男もいる。

僕は静かにうなずいた。

「お人好しだね。あの女の子を差し出せば君は帰れたよ。でもそういうところが、彼の方のお気に召したみたいだからね。さ、行こうか」

僕は狐たちに先導されてゆっくりと歩き出す。僕は多分、神隠しに遭うのだ。これから先に起こることはきっと誰も知らないことだろう。

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