祭りの夜は、人々が浮かれているせいか、普段とは違った空気が漂っている。
夏の生温かい風に乗って、屋台から流れてくる甘ったるいベビーカステラの匂いやイカ焼きの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
僕はひとりで、人混みの隙間を縫うように歩いていた。
毎年この時期、地元の小さな神社で開かれる祭りだ。
特に目新しいものはないけれど、僕はこの祭りがなぜか好きだった。
境内の端に差し掛かったところで、小さな露店が目に留まった。
提灯が一つ、ぼんやりと灯りを放ち、その下に狐面が並べられていた。
店主は狐の面をかぶった男だった。
「珍しいだろう?」
男は面の下からくぐもった声で言った。
狐面はどれも丁寧に作られ、美しい模様が描かれていた。子供向けのおもちゃとは思えない。
中でも一つ、深い赤色で彩られ、瞳が光を宿しているような面が目を惹いた。
「これ、すごい細工ですね」
僕が言うと、男は笑いを含んだ声で答えた。
「気に入ったか。これは特別な面でな、つければ不思議なものが見えるという」
「不思議なもの……?」
露店の売り口上にしては変わっている。男は狐面を手に取り、差し出した。
「君にはこれが似合うだろう」
値段を尋ねると、男は首を横に振った。
「金はいらない。その代わり――いや、何でもない。祭を楽しんで」
僕は差し出された面を受け取った。不思議な感覚に襲われたが、礼を言ってその場を去った。
祭りはますます賑やかになり、浴衣姿の人々が楽しそうに話しながら歩いている。
ふと好奇心が湧き、僕は狐面を顔にあてた。その瞬間、世界が変わった。
音が静まり返り、人々の動きがゆっくりとした幻のように映る。
景色は青白く染まり、祭りの喧騒が遠くへ引き離されたかのようだった。
「なに、これ……」
呆然と辺りを見回すと、人々の間に、半透明の狐たちがひっそりと立っていることに気付いた。
狐たちは人間の影に隠れるように動き、耳を立ててこちらをじっと見つめていた。
突然、背後から声がした。
「見えるか?」
振り返ると、狐面の男が静かに立っていた。
「これは、どういうことですか?」
男はゆっくりと面を外した。その下には端正だがどこか悲しげな顔があった。
「この面をつけるとこの世ならざるものが見える。誰でも見えるわけじゃない。面が人を選ぶ」
男は僕の驚く顔を見て、穏やかに続けた。
「――そして、離さない。私も昔、この面をつけてしまった。以来、こちら側の世界に囚われている」
男は、狐たちのいる世界の方を見つめて言った。
「君が見ている狐は、神の眷属だ。彼らは祭りを楽しんでいるんだよ」
僕はそっと面を外した。途端に世界は元の賑やかな祭りに戻り、狐の姿も消えた。面をつけるとまた視界は青白くなった。
「君に選択権はない——が、逃げることが不可能というわけではない」
男は静かに言った。近くにいた狐が男を非難するように鼻先で小突いた。
「よく考えろ」
僕は狐面を手に、祭りの喧騒の中をゆっくりと歩いた。
あの男や狐たちが自分に何を求めているのか、よくわからない。
考えながら、境内を歩いていると、小さな女の子がしゃがんで泣いているのが見えた。
僕は近寄って声をかけた。
「どうしたの?」
女の子は顔を上げ、目を真っ赤にして言った。
「迷子になったの」
僕は彼女の手を握り、迷子案内所へと歩き始めた。
その瞬間、何気なく狐面をつけた。
狐がいた。女の子の袖をくわえている。女の子の体もなぜか半分青白く見えた。
反射的にその狐を追い払うようにはねのける。
「――では、お前が来い」
その狐が口を開いた。
そういうことか。本当かどうかは知らないが、祭で人が消えたりする話は古くからある。消えた先でどうなるのか、それは誰もわからない。
僕は一度狐面を外した。
「このまま、あの看板のところまで真っ直ぐに行くんだ。それからそこにいる赤い袴のお姉さんに『お母さんとはぐれた』と伝えて。あそこにいれば大丈夫だから」
女の子は泣きながら、こくんと頷き歩き出す。
再び狐面をつけると、数匹の狐たちが僕を取り囲んでいた。あの狐面の男もいる。
僕は静かにうなずいた。
「お人好しだね。あの女の子を差し出せば君は帰れたよ。でもそういうところが、彼の方のお気に召したみたいだからね。さ、行こうか」
僕は狐たちに先導されてゆっくりと歩き出す。僕は多分、神隠しに遭うのだ。これから先に起こることはきっと誰も知らないことだろう。
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