#229 愛なき者

ちいさな物語

朝、目覚めたとき、部屋の空気が少し違っていた。

テレビをつけるとニュースキャスターがにこやかに言っていた。

「おはようございます。愛しています」

それを受けて、司会者、ゲストらしき人々も次々に「おはようございます。愛しています」、「愛しています」とごく普通のあいさつのように口にした。

意味がわからなかった。そのうち笑いでも起こるのかと見守っていたが、そのままニュース報道に切り替わった。

画面には見慣れた街並みが映っていたが、そこでは人々の頭上に数値が浮かび上がっていた。気になってニュースが頭に入ってこない。

「何だ? あの数字」

そして通勤中、さらに驚くことになる。

スーパーのレジではおにぎりをバーコードで読み取り「82愛になります」と笑う店員。いつの間に通貨が「愛」になったんだ?

カフェでは「今日、彼氏に朝ごはん作ってきたから、私160愛増えたの」と自慢する女性。のろけにしてはおかしいな。

——頭がおかしくなったのか、世界が狂ったのか。

いや、狂っていたのは僕の方だった。

僕の頭の上には、数字が表示されていなかった。ゼロですらない。空白だった。辺りを見渡してもそんな人は一人もいなかった。

会社に行っても、ドアは開かない。認証には最低「20愛」が必要だった。同僚たちは困惑しながら僕を見て、上司は目を伏せた。

「……申し訳ないが、君はもうここで働けない。うちは『無愛者』を雇えないんだ」

駅も、コンビニも、全部ダメだった。頭の上に数字がないとまともに仕事も生活もできない。どうなっているんだ。

どうやらこの世界では、親切にしたり、誰かを思いやる行為が「愛」として蓄積され、それで生活をすることになっているらしい。仕事も「愛」のために行うもので、お金という存在は一切消えていた。

保育士、介護士や看護士、その他様々な接客業の人々の頭上には信じられないほどの「愛」が蓄積されており、人々は称賛の眼差しを向けていた。人と接して親切にするチャンスが多い職業こそ花形だった。

これまで、成果を出せば評価され、金を稼げば勝ち。そんな世界で生きてきたし、それで十分だと思っていた。そんな僕にとって、この愛を通貨とする社会は地獄だった。

数日後、僕は街をさまよっていた。路上で倒れた老人を見ても、手を差し伸べるどころか、目をそらした。それを見ていた人々が、僕から一歩ずつ距離を取った。別のスーツを着た男性が素早く老人に手を貸して助け起こす。

「見た? さっきのあの人は何もしなかったわ」

「通報した方がいいんじゃない?」

まるで僕が犯罪者になったかのようだった。

その夜、アパートに帰ると、玄関に「愛価不足による立ち退き」の紙が貼られていた。

鍵が開かない。システムはすべて“愛”で制御されていた。

寒さと空腹に震えながら、路地裏で体を丸めていると、誰かがそっと毛布をかけてくれた。少女だった。10代くらい。小さなリュックを背負い、優しい目をしていた。母親らしき人が近くで見守っている。

「どうしてそんなことを……?」

「困ってる人がいたら、助けるのが当たり前じゃない?」

当たり前——その言葉が胸に突き刺さった。

でも、僕は礼も言わずにそっぽを向いた。すると、少女の頭上の数字がスッと減ったのが見えた。

愛はきちんと受け取ってもらえない場合、ただ消耗するのみだ。彼女はその分、損をしたことになり、僕は「愛窃盗犯」として立派な犯罪者になる。

そして翌日、僕は逮捕された。

「無愛者、または愛価ゼロ以下の者による愛窃盗の疑いで逮捕する」

警官にそう言われ、腕をつかまれた。

周囲の人々は僕を見ていた。

憐れみの目ではない。明らかに犯罪者を見るような目だった。僕は思わず着ていたパーカーで頭を覆いパトカーに乗った。こんなニュース映像でしか見たことない光景の中に自分がいるのが信じられなかった。

留置所には、僕のような無愛者たちが何人かいた。

「……ここまで落ちるとは思わなかったよ」

「社会が狂ってるんだ」

彼らは口々にそう言った。だが内心、僕はわかっていた。

狂っているのは世界ではない。誰にも愛を与えないことが、狂気として見なされる社会に、僕が順応できなかっただけだ。

罪状はやはり愛窃盗。

初犯で50愛の窃盗ということが考慮され不起訴。ただし、更生プログラムとして、強制的な「愛体験」プログラムへの参加が命じられた。

それは、VRを使って誰かの人生を追体験する装置だった。

最初に与えられたのは、幼い頃に母親に弁当を作ってもらった少年の視点。温かいご飯、卵焼き。それを笑いながら分け合う友達。
次に見たのは、老犬の最後を看取る老人の目線。その温もり。静かな涙。
そして、少女が毛布をかけた瞬間の、彼女自身の記憶。「あの人、ほんとうは寂しそうだった」という心の声。

——そんなことは知っていた。

そういった愛くらい僕だって知っていたんだ。そういうことが大切なことも。ただ、これまで数値化されてこなかったじゃないか。

プログラムが終わり、僕の頭上に、うっすらと数字が灯った。

「1」

それは、ゼロよりも確かに重かった。僕はようやく理解した。この世界が変わったのではない。世界は最初から、こうだったのだ。それが数値化されただけ。

上等だ。このゲームチェンジ、のってやる。ルールさえ理解すればこれまで通り、優秀な人間としてやりきれる。

僕は新しい世界で一歩を踏み出した。

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