その料理が運ばれてきたのは、ちょうど僕が水を飲もうとしたときだった。
木のトレイに載ったそれは、湯気を立て、甘いようで香ばしい、なんともいえない香りを漂わせていた。
ふと横を見た。隣の席の中年男性が、箸を手にしていた。ゆっくりとご飯をすくい、汁気の多い何かを上からかけて、口に運ぶ。
――うまそう。
正直に言って、今の自分の気分と完璧に合致していた。煮込まれているのか、焼かれているのかもよくわからないが、このかぐわしい香りといい、湯気の勢いといい、ちょうどああいうのが食べたかったんだ。
店内は静かで、古い定食屋の雰囲気がある。壁には木の札に書かれたメニューがずらりと並び、どれも筆文字で判別しづらい。
とりあえずメニュー表を開く。写真はない。名前だけ。
・牛すじ煮定食
・鯖の香味焼き定食
・豆腐ステーキ定食
・卵とじ定食
……うーん、どれも違う気がする。いや、豆腐ステーキに見えなくもないか? いやいや、それにしては汁気が多いような……?
僕の隣の男は、今度は汁をすくいながら、口を閉じたまま「ふむ」とうなずいた。やはりうまそうだ。
再びメニューに目を落とす。
「A定食(時価)」とだけ書かれた項目がある。これか? でも時価って、こんな町の定食屋に? 魚介とかそういったものが使われているのだろうか。
いや、違う。何か、もっとこう……「秘密めいた」名前であるはずだ。
たとえば――「山の幸ごちゃまぜ鍋」とか、「大将の気まぐれ丼」とか、そういう、何が入っているのかわからないような。
頭の中で、メニューに書かれた名前と料理の姿をマッチングしようとする。
「焼き鯖味噌とろろがけ」? 違う。あれは白っぽくなかった。
「おじや風雑炊」? 湯気の勢いはそれっぽいけど、米がメインではない。
ちらりと隣を見る。男はもう半分以上食べている。
これはまずい。このままでは、メニューが判明する前に、料理が見れなくなってしまう。
どうしても食べたい。
思い切って、声をかけようかと思った瞬間――男が、静かに立ち上がり、厨房に向かって言った。
「ごちそうさん。やっぱり“アレ”、最高だよ」
“アレ”!?
店主がカウンターの奥で笑っている。「あいよ、またどうぞ」
“アレ”とは何だ。
メニューにない。どこにも書かれていない。
僕は決意して、席を立ち、店主に声をかけた。
「あの、すみません。隣の方が食べていた料理、あれって……」
店主は少し考えるふりをしてから、ふっと笑った。
「“いつもの”ってやつですよ」
「いつもの……ですか?」
「まあ、常連さん用。作れる材料があるときだけやってる秘密のメニュー」
店主はにやりと笑った。
「どんな料理なんですか?」
「うーん、名前ないんだけど――あえて言うなら『こがしあんかけ肉どうふ定食』かな。でもな、味は客の好みでちょっとずつ変えてんだ」
「それ、頼めますか?」
「うーん」
ここまで話してくれたんだから、いいだろうと思っていたが、店主は渋い顔をする。
「常連さん用のメニューなんだよなぁ。一見さんに出すと、ほら、体裁が悪いんだよなぁ」
そう言って、もったいぶったような顔で店内を見渡す。
おそらく「常連さん」がこのやりとりを見ているのだろう。確かにもし逆の立場だったら、ぽっと出の素人に常連用のメニューを食べさせるなんて、もやもやした気持ちになってしまう。
「そこをなんとか。お願いします」
店主は「うーん」と顎に手をやって考え込む。
「あんた、常連になる気はあるかい?」
「え?」
「常連用のメニューなんだよなぁ」
しんと店内が静まり返った。もしかして、自分以外は常連さんなのか?
「はい。今日から通わせていただきます!」
僕は大きな声で宣言した。すると、店内の客のほとんどが立ち上がって拍手を始めた。
「ようこそ!」
「ようこそ!」
変な店だな。早まったかな。そもそもまだ料理を一口も食べていなかった。
やっとの思いで目の前に運ばれてきた例の“アレ”は、もうもうと湯気を立てている。これだ。これだ。本当に、これが食べたかったのだ。
おそるおそる口に運ぶと――
「熱いッ! うまいッ!」
僕は食事中にもかかわらず、立ち上がって他の常連さんたちとハイタッチをして店内を回った。
「ここは他のメニューもうまいよ」
そう聞いたら、明日からは全制覇を目指すしかない。
「ごちそうさまでした! また明日!」
僕は意気揚々と店をあとにした。
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