#235 いつもの

ちいさな物語

その料理が運ばれてきたのは、ちょうど僕が水を飲もうとしたときだった。

木のトレイに載ったそれは、湯気を立て、甘いようで香ばしい、なんともいえない香りを漂わせていた。

ふと横を見た。隣の席の中年男性が、箸を手にしていた。ゆっくりとご飯をすくい、汁気の多い何かを上からかけて、口に運ぶ。

――うまそう。

正直に言って、今の自分の気分と完璧に合致していた。煮込まれているのか、焼かれているのかもよくわからないが、このかぐわしい香りといい、湯気の勢いといい、ちょうどああいうのが食べたかったんだ。

店内は静かで、古い定食屋の雰囲気がある。壁には木の札に書かれたメニューがずらりと並び、どれも筆文字で判別しづらい。

とりあえずメニュー表を開く。写真はない。名前だけ。

・牛すじ煮定食
・鯖の香味焼き定食
・豆腐ステーキ定食
・卵とじ定食

……うーん、どれも違う気がする。いや、豆腐ステーキに見えなくもないか? いやいや、それにしては汁気が多いような……?

僕の隣の男は、今度は汁をすくいながら、口を閉じたまま「ふむ」とうなずいた。やはりうまそうだ。

再びメニューに目を落とす。

「A定食(時価)」とだけ書かれた項目がある。これか? でも時価って、こんな町の定食屋に? 魚介とかそういったものが使われているのだろうか。

いや、違う。何か、もっとこう……「秘密めいた」名前であるはずだ。

たとえば――「山の幸ごちゃまぜ鍋」とか、「大将の気まぐれ丼」とか、そういう、何が入っているのかわからないような。

頭の中で、メニューに書かれた名前と料理の姿をマッチングしようとする。

「焼き鯖味噌とろろがけ」? 違う。あれは白っぽくなかった。

「おじや風雑炊」? 湯気の勢いはそれっぽいけど、米がメインではない。

ちらりと隣を見る。男はもう半分以上食べている。

これはまずい。このままでは、メニューが判明する前に、料理が見れなくなってしまう。

どうしても食べたい。

思い切って、声をかけようかと思った瞬間――男が、静かに立ち上がり、厨房に向かって言った。

「ごちそうさん。やっぱり“アレ”、最高だよ」

“アレ”!?

店主がカウンターの奥で笑っている。「あいよ、またどうぞ」

“アレ”とは何だ。

メニューにない。どこにも書かれていない。

僕は決意して、席を立ち、店主に声をかけた。

「あの、すみません。隣の方が食べていた料理、あれって……」

店主は少し考えるふりをしてから、ふっと笑った。

「“いつもの”ってやつですよ」

「いつもの……ですか?」

「まあ、常連さん用。作れる材料があるときだけやってる秘密のメニュー」

店主はにやりと笑った。

「どんな料理なんですか?」

「うーん、名前ないんだけど――あえて言うなら『こがしあんかけ肉どうふ定食』かな。でもな、味は客の好みでちょっとずつ変えてんだ」

「それ、頼めますか?」

「うーん」

ここまで話してくれたんだから、いいだろうと思っていたが、店主は渋い顔をする。

「常連さん用のメニューなんだよなぁ。一見さんに出すと、ほら、体裁が悪いんだよなぁ」

そう言って、もったいぶったような顔で店内を見渡す。

おそらく「常連さん」がこのやりとりを見ているのだろう。確かにもし逆の立場だったら、ぽっと出の素人に常連用のメニューを食べさせるなんて、もやもやした気持ちになってしまう。

「そこをなんとか。お願いします」

店主は「うーん」と顎に手をやって考え込む。

「あんた、常連になる気はあるかい?」

「え?」

「常連用のメニューなんだよなぁ」

しんと店内が静まり返った。もしかして、自分以外は常連さんなのか?

「はい。今日から通わせていただきます!」

僕は大きな声で宣言した。すると、店内の客のほとんどが立ち上がって拍手を始めた。

「ようこそ!」

「ようこそ!」

変な店だな。早まったかな。そもそもまだ料理を一口も食べていなかった。

やっとの思いで目の前に運ばれてきた例の“アレ”は、もうもうと湯気を立てている。これだ。これだ。本当に、これが食べたかったのだ。

おそるおそる口に運ぶと――

「熱いッ! うまいッ!」

僕は食事中にもかかわらず、立ち上がって他の常連さんたちとハイタッチをして店内を回った。

「ここは他のメニューもうまいよ」

そう聞いたら、明日からは全制覇を目指すしかない。

「ごちそうさまでした! また明日!」

僕は意気揚々と店をあとにした。

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