最初に気づいたのは、静けさだった。
ぬるい泥の底から引き上げられるように、僕は目を覚ます。がらんとした車内、蛍光灯の光はすでに落とされ、窓の外には何も見えない。
うっすらとした非常灯だけが、座席の輪郭をぼんやりと照らしている。
「……え?」
しばらく状況が飲み込めなかった。スーツのまま、鞄を抱え、僕は終電に乗っていた――はずだった。 会社の飲み会で少し酒が入っていたせいか、座った瞬間、眠気に勝てなかったのだ。
「寝過ごした……?」
慌ててスマホを取り出す。 電波は圏外。時計は2:17を示している。車内アナウンスもなく、乗客の姿もない。完全に「取り残された」状態だった。
ドアの開閉ボタンを押してみたが、反応はない。車内のインターホンに手を伸ばしたが、通話もできなかった。
唯一感じられるのは、自分の鼓動と、車内にわずかに残る、人のいた気配だった。
僕は車両の端まで歩いてみた。
誰もいない。清掃員も、駅員も、何も。
窓の外を覗くが、景色は真っ黒だった。夜の闇ではない。照明のない“空洞”のようだった。
車庫の中なのだろうか。いや、それにしては不気味すぎる。
だが、ひとつだけ見つけたものがある。シートの上に小さな紙切れが落ちていたのだ。しかもそこだけ、ほんのりと暖かい。
誰かがさっきまで座っていたような温もりが残っている。
紙切れを拾い上げると、そこには手書きの文字。
「ここからは降りられません。知ってしまったら戻れません。」
ぞくりと背筋が冷えた。冗談か? イタズラか? でも、この状況でそんなことを考える余裕はなかった。
僕は車両をひとつずつ進んでいった。
そのたびに、シートに人がいた痕跡が残っていた。
温もり、落ちている紙、座席の下に置かれた空のペットボトルや空き缶、駅でよく配られているポケットティッシュ。
そして、八両目。
その車両の中央には、一人の乗客がいた。
顔は見えない。長い髪を下ろし、黒いコートを着て、じっと前を向いていた。
安堵と恐怖が入り混じった声で僕は話しかけた。
「あの、すみません。ここ、どこかご存知ですか?」
沈黙。
もう一度声をかけようとしたとき、その人物がゆっくりとこちらを向いた。
顔には何もなかった。
いや、顔がなかった。まるで白紙の仮面のようだった。「むじな」という怪談を思い出した。
その口元が、にゅるりと開く。
「まだ、乗っていたのですね」
低く、湿った声だった。
「これは終点のその先を走っている電車です。あなたは眠って、降り損ねた」
「ここは……どこなんです?」
「降りなかった人たちのための場所。駅員もいない。地図にもない。けれど、すべての終点の向こう側にある“在りか”です」
僕は、後ずさった。何を言っているのか全然わからない。冗談だよな。何かのドッキリだ、こんなもの、現実じゃない。
そのとき、彼女――いや、“それ”が、ぽつりと言った。
「――降りたいですか?」
僕はうなずいた。
すると、“それ”は立ち上がり、手に一枚の切符を差し出した。
白紙の切符だった。
「これを持って、いちばん最初の車両へ行ってください。ただし、一度だけしか戻れません。次はないですよ」
僕は切符を受け取り、走り出した。
車両をひとつ、またひとつ。
気づけば、どの車両にも誰もいなかった。落ちていたティッシュも、ペットボトルも、空き缶も、そして紙切れも、何も。
最前車両に着くと、運転席のドアが少し開いていた。
中には、誰もいなかった。
だが、運転席の横には、白いボタンがひとつだけある。そこには「戻る」と書かれており、ちょうど改札の切符を入れるところのような穴が空いていた。
僕は切符をそこに差し込む。
ボタンが点滅し、車内にざらざらとしたアナウンスが流れる。
「……お降りのお客様、お忘れ物のないようお気をつけください」
眩い光。
目を開けると、朝だった。
電車は見慣れた駅に停まり、乗客が次々と降りていく。僕は鞄を抱き抱えるように持ち、人に押されてよろよろと外へ出た。
足元には、あの切符が落ちている。それは何も書かれていない。ただの厚紙だった。
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