#237 終点の向こう側

ちいさな物語

最初に気づいたのは、静けさだった。

ぬるい泥の底から引き上げられるように、僕は目を覚ます。がらんとした車内、蛍光灯の光はすでに落とされ、窓の外には何も見えない。

うっすらとした非常灯だけが、座席の輪郭をぼんやりと照らしている。

「……え?」

しばらく状況が飲み込めなかった。スーツのまま、鞄を抱え、僕は終電に乗っていた――はずだった。
会社の飲み会で少し酒が入っていたせいか、座った瞬間、眠気に勝てなかったのだ。

「寝過ごした……?」

慌ててスマホを取り出す。
電波は圏外。時計は2:17を示している。車内アナウンスもなく、乗客の姿もない。完全に「取り残された」状態だった。

ドアの開閉ボタンを押してみたが、反応はない。車内のインターホンに手を伸ばしたが、通話もできなかった。

唯一感じられるのは、自分の鼓動と、車内にわずかに残る、人のいた気配だった。

僕は車両の端まで歩いてみた。


誰もいない。清掃員も、駅員も、何も。

窓の外を覗くが、景色は真っ黒だった。夜の闇ではない。照明のない“空洞”のようだった。

車庫の中なのだろうか。いや、それにしては不気味すぎる。

だが、ひとつだけ見つけたものがある。シートの上に小さな紙切れが落ちていたのだ。しかもそこだけ、ほんのりと暖かい。

誰かがさっきまで座っていたような温もりが残っている。

紙切れを拾い上げると、そこには手書きの文字。

「ここからは降りられません。知ってしまったら戻れません。」

ぞくりと背筋が冷えた。冗談か? イタズラか? でも、この状況でそんなことを考える余裕はなかった。

僕は車両をひとつずつ進んでいった。

そのたびに、シートに人がいた痕跡が残っていた。

温もり、落ちている紙、座席の下に置かれた空のペットボトルや空き缶、駅でよく配られているポケットティッシュ。

そして、八両目。

その車両の中央には、一人の乗客がいた。

顔は見えない。長い髪を下ろし、黒いコートを着て、じっと前を向いていた。

安堵と恐怖が入り混じった声で僕は話しかけた。

「あの、すみません。ここ、どこかご存知ですか?」

沈黙。

もう一度声をかけようとしたとき、その人物がゆっくりとこちらを向いた。

顔には何もなかった。

いや、顔がなかった。まるで白紙の仮面のようだった。「むじな」という怪談を思い出した。

その口元が、にゅるりと開く。

「まだ、乗っていたのですね」

低く、湿った声だった。

「これは終点のその先を走っている電車です。あなたは眠って、降り損ねた」

「ここは……どこなんです?」

「降りなかった人たちのための場所。駅員もいない。地図にもない。けれど、すべての終点の向こう側にある“在りか”です」

僕は、後ずさった。何を言っているのか全然わからない。冗談だよな。何かのドッキリだ、こんなもの、現実じゃない。

そのとき、彼女――いや、“それ”が、ぽつりと言った。

「――降りたいですか?」

僕はうなずいた。

すると、“それ”は立ち上がり、手に一枚の切符を差し出した。

白紙の切符だった。

「これを持って、いちばん最初の車両へ行ってください。ただし、一度だけしか戻れません。次はないですよ」

僕は切符を受け取り、走り出した。

車両をひとつ、またひとつ。

気づけば、どの車両にも誰もいなかった。落ちていたティッシュも、ペットボトルも、空き缶も、そして紙切れも、何も。

最前車両に着くと、運転席のドアが少し開いていた。

中には、誰もいなかった。

だが、運転席の横には、白いボタンがひとつだけある。そこには「戻る」と書かれており、ちょうど改札の切符を入れるところのような穴が空いていた。

僕は切符をそこに差し込む。

ボタンが点滅し、車内にざらざらとしたアナウンスが流れる。

「……お降りのお客様、お忘れ物のないようお気をつけください」

眩い光。

目を開けると、朝だった。

電車は見慣れた駅に停まり、乗客が次々と降りていく。僕は鞄を抱き抱えるように持ち、人に押されてよろよろと外へ出た。

足元には、あの切符が落ちている。それは何も書かれていない。ただの厚紙だった。

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