「ねえ、あれ見た?」
そんな噂からすべては始まった。通学路の途中、古ぼけたレンガ塀の裏に、いつのまにか現れていた露店。
店というには奇妙で、店員らしき人物もいない。ただ、古い木の台が置かれ、その上に小瓶が並んでいるだけ。野菜の無人販売所といった雰囲気だ。
瓶にはすべて「夢の原液」と書かれていた。ラベルは癖のある手書きで、それぞれに小さく「夏の夕立」「最初の恋」「空を飛ぶ夢」「死にかけた夢」など、意味深なタイトルが添えられていた。
最初にそれを手に取ったのは、隣のクラスの白石くんだったという噂だ。彼は瓶を持ち上げると、それをくるくると回しながら不思議そうに覗き込んでいたが、急にふらりと立ち去り、そのまま数日学校に来なかったのだという。
戻ってきたときには、目つきが変わっていた。鋭く、けれどやたらと遠くを見ているような。
僕がその露店を見に行ったのは、彼の噂を聞いた週末のことだった。
噂通り、台の上には十数本の瓶が並んでいた。
「本当の話だったんだ」
瓶はどれも手のひらサイズで、光にかざすと中で液体がゆらゆら揺れる。それは水のような、油のような――揺らしたときの動きは重たく、けれど透き通ってキレイな何か――まさしく「夢の原液」と呼ぶにふさわしい、名状しがたい液体だった。
一本、選んだ。ラベルにはこうあった。
《まだ生まれていない子の夢》
僕は瓶のふたをそっと開ける。
――世界が、裏返ったような感覚があった。
目を開けると、草の海のような丘の上にいた。空はミルク色で、太陽がいくつも浮かんでいる。それでも眩しすぎることはなく、風の音は音楽のようだった。地面がどくんどくんと大きな音で動いている感じがするが、不思議と不快ではなかった。
僕の体は形を持っておらず、ただ風に吹かれるように、その場を漂っていた。何かを探しているような、呼ばれているような感覚がある。そこにあるのは、まだこの世に存在しない意志の断片―― 。
ふと、声がした。
「それはぼくの夢だよ」
振り向くと、輪郭のはっきりしない影がそこにいた。浮遊する小さな影。
そう、アレだ。理科の教科書で見た「お母さんのお腹の中にいる赤ちゃん」!
「ぼくは、まだ生まれてない。でも、夢は真っ先に育つんだよ。きみが一緒にみたんだ。きっとまた会おうね」
その瞬間、瞼の中で光が爆ぜ、僕は現実に戻っていた。
店の前に立っていた僕の手には、もう瓶はなかった。代わりに、小さな感熱紙があった。
《毎度ありがとうございます》
レシート?
僕は何日も考え続けた。その夢は本物だったのか、あれは誰の夢だったのか――そして、あの子が本当にこの世界に生まれてくるのかを。
その後、露店を見ることはなかったが、クラスの中には見たという人が何人もいた。
もしかして一度しか夢の原液に触れることはできないのだろうか。僕は、もっとちゃんと選べばよかったなと、少し後悔してしまった。
コメント