#243 小石のバトン

ちいさな物語

それはただの、小石だった。

歩道に落ちた、丸く削られた白い小石。加工されたものであることは一目瞭然。どこかの敷地に敷き詰められていたものを、子どもが拾って遊んでいたのだろう。

通行人が意図せずそれを蹴飛ばし、転がった先は、都内の静かな住宅街の交差点近く。

そして、その小石に、最初に影響を受けたのは――大川陽太(おおかわようた)、七歳。

ランドセルがやけに重い帰り道。本当はダメだけど、公園で少し寄り道して、蟻の巣を観察して、さて帰ろうと歩き出したそのとき。

つま先が、その小石にひっかかった。

「うわっ」

転ぶほどではなかったが、体がよろめいて、いつの間にか留め金が外れてしまっていたランドセルの中身が、地面にばら撒かれてしまった。

「あー……」

その場にしゃがみこんだ陽太の前に、スーツ姿の女性が現れた。

「大丈夫? 足ひねったりしてない?」

そう言って手を差し伸べたのは、黒縁メガネをかけた背の高い女性――田中沙織、会社員。

彼女は今日、プレゼンに使うデータを家に置いてきたことに昼休みに気づき、急遽戻ってきたところだった。

イライラしていたが、目の前の小さな子どもが転びそうになった瞬間、体が勝手に動いていた。一緒にランドセルの中身を拾ってあげる。

「お姉さん、ありがとう!」

元気な声に沙織はふと心がほどけ、笑った。

その笑顔を見たのが、陽太の母。息子の帰りが遅いので、ちょうど迎えにきていた。

彼女は息子と女性が話しているのを見て、駆け寄った。

「ご親切に、どうもありがとうございます」

「いえいえ。怪我がないようで、よかったです」

その一言のあと、沙織は駅へ急いだ。

ホームを駆け上がったとき、電車はちょうど来たところだった。

実はそのタイミングは、陽太の小石がきっかけだった――と、彼女は知らない。

その電車の中から、沙織を見ていたのは、年配の男性――鈴木邦夫、七十歳。

彼はこれから病院に行く日だったが、実は迷っていた。検査結果を聞くのが怖くて、このまま散歩に行ってしまおうかと考えていたのだ。

けれど、ホームで見かけた「走ってくる沙織」の真剣な表情に、なぜか背を押された。

「ああ、一生懸命だなぁ。自分も、ちゃんと向き合わないと」

彼は病院に行き、検査の早期受診が功を奏し、軽度の病変で済んだ。治療には面倒な入院、通院が必要だが、これからも生きられる。

その帰り道、ホッとした表情で公園を歩いていたとき、見知らぬ若者がベンチにうなだれていた。

「……大丈夫かい?」

声をかけられたのは、大学生の石井翔太。

その日、ゼミの発表で大失敗し、逃げるように学校を抜け出していた。

「いいことないなって、思ってたところなんです」

邦夫の「あるある、そういうときもあるよ」という笑い話と、ミントの飴をくれた優しさに、翔太は思わず泣いた。

「がんばってるね」

一言が、沁みた。

それから翔太は少しずつ立ち直り、数週間後、ゼミの飲み会で「最近ちょっと元気になった」と言った。

その飲み会の帰り道、酔った友人がふらついて交差点に飛び出しそうになった。

咄嗟に手をつかんで引き戻す。

「危ねぇよ!」

笑いながら叱った彼の声に、その場にいた人が小さく拍手した。その中にいた一人の女性――佐久間理子は、偶然その瞬間をスマホで撮っていた。

後日、「危なかった! Iくん、大活躍!」と、一瞬の写真をSNSに投稿。

それが、地元の小さなニュースコーナー「今日の一瞬」に取り上げられた。

ほんの小さなことだったが、「最近、いい話がないと思ってたけど、こういうの見るとホッとするね」というコメントが多く寄せられた。

その投稿を見たひとりの人物が、久しぶりに石井翔太にLINEを送った。

「新聞見たよ。モザイクかかってたけど、あれ、石井くんでしょ? なんかすごいじゃん。最近元気?」

それがきっかけで、疎遠になっていた友人と再会することになる。

再会した二人は意気投合し親交を深めた。

大学を卒業し、就職し、仕事をしながら、今、二人でカフェを開こうと計画を立てている。

「ここに来ると、なんかほっとする」って言ってもらえるような店を作ろう。やがて小さなカフェはオープンして、近所の人々の憩いの場となった。

その店の入り口の小道には、丸く削られた白い小石が敷き詰められている。

「ひとつひとつは小さくても、ちゃんとつながって、誰かの力になれるように」
翔太がそう言って笑った。

きっかけの小石は、今も交差点の隅にひっそりと転がっているかもしれない。

誰もそれに気づかず、またつまずいて、
また、何かが始まるかもしれない。

小さなことが、誰かの大きな何かに変わる。そんな連鎖が、今日もどこかで続いている。

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