それはただの、小石だった。
歩道に落ちた、丸く削られた白い小石。加工されたものであることは一目瞭然。どこかの敷地に敷き詰められていたものを、子どもが拾って遊んでいたのだろう。
通行人が意図せずそれを蹴飛ばし、転がった先は、都内の静かな住宅街の交差点近く。
そして、その小石に、最初に影響を受けたのは――大川陽太(おおかわようた)、七歳。
ランドセルがやけに重い帰り道。本当はダメだけど、公園で少し寄り道して、蟻の巣を観察して、さて帰ろうと歩き出したそのとき。
つま先が、その小石にひっかかった。
「うわっ」
転ぶほどではなかったが、体がよろめいて、いつの間にか留め金が外れてしまっていたランドセルの中身が、地面にばら撒かれてしまった。
「あー……」
その場にしゃがみこんだ陽太の前に、スーツ姿の女性が現れた。
「大丈夫? 足ひねったりしてない?」
そう言って手を差し伸べたのは、黒縁メガネをかけた背の高い女性――田中沙織、会社員。
彼女は今日、プレゼンに使うデータを家に置いてきたことに昼休みに気づき、急遽戻ってきたところだった。
イライラしていたが、目の前の小さな子どもが転びそうになった瞬間、体が勝手に動いていた。一緒にランドセルの中身を拾ってあげる。
「お姉さん、ありがとう!」
元気な声に沙織はふと心がほどけ、笑った。
その笑顔を見たのが、陽太の母。息子の帰りが遅いので、ちょうど迎えにきていた。
彼女は息子と女性が話しているのを見て、駆け寄った。
「ご親切に、どうもありがとうございます」
「いえいえ。怪我がないようで、よかったです」
その一言のあと、沙織は駅へ急いだ。
ホームを駆け上がったとき、電車はちょうど来たところだった。
実はそのタイミングは、陽太の小石がきっかけだった――と、彼女は知らない。
その電車の中から、沙織を見ていたのは、年配の男性――鈴木邦夫、七十歳。
彼はこれから病院に行く日だったが、実は迷っていた。検査結果を聞くのが怖くて、このまま散歩に行ってしまおうかと考えていたのだ。
けれど、ホームで見かけた「走ってくる沙織」の真剣な表情に、なぜか背を押された。
「ああ、一生懸命だなぁ。自分も、ちゃんと向き合わないと」
彼は病院に行き、検査の早期受診が功を奏し、軽度の病変で済んだ。治療には面倒な入院、通院が必要だが、これからも生きられる。
その帰り道、ホッとした表情で公園を歩いていたとき、見知らぬ若者がベンチにうなだれていた。
「……大丈夫かい?」
声をかけられたのは、大学生の石井翔太。
その日、ゼミの発表で大失敗し、逃げるように学校を抜け出していた。
「いいことないなって、思ってたところなんです」
邦夫の「あるある、そういうときもあるよ」という笑い話と、ミントの飴をくれた優しさに、翔太は思わず泣いた。
「がんばってるね」
一言が、沁みた。
それから翔太は少しずつ立ち直り、数週間後、ゼミの飲み会で「最近ちょっと元気になった」と言った。
その飲み会の帰り道、酔った友人がふらついて交差点に飛び出しそうになった。
咄嗟に手をつかんで引き戻す。
「危ねぇよ!」
笑いながら叱った彼の声に、その場にいた人が小さく拍手した。その中にいた一人の女性――佐久間理子は、偶然その瞬間をスマホで撮っていた。
後日、「危なかった! Iくん、大活躍!」と、一瞬の写真をSNSに投稿。
それが、地元の小さなニュースコーナー「今日の一瞬」に取り上げられた。
ほんの小さなことだったが、「最近、いい話がないと思ってたけど、こういうの見るとホッとするね」というコメントが多く寄せられた。
その投稿を見たひとりの人物が、久しぶりに石井翔太にLINEを送った。
「新聞見たよ。モザイクかかってたけど、あれ、石井くんでしょ? なんかすごいじゃん。最近元気?」
それがきっかけで、疎遠になっていた友人と再会することになる。
再会した二人は意気投合し親交を深めた。
大学を卒業し、就職し、仕事をしながら、今、二人でカフェを開こうと計画を立てている。
「ここに来ると、なんかほっとする」って言ってもらえるような店を作ろう。やがて小さなカフェはオープンして、近所の人々の憩いの場となった。
その店の入り口の小道には、丸く削られた白い小石が敷き詰められている。
「ひとつひとつは小さくても、ちゃんとつながって、誰かの力になれるように」
翔太がそう言って笑った。
きっかけの小石は、今も交差点の隅にひっそりと転がっているかもしれない。
誰もそれに気づかず、またつまずいて、
また、何かが始まるかもしれない。
小さなことが、誰かの大きな何かに変わる。そんな連鎖が、今日もどこかで続いている。
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