#245 金魚すくいと約束

ちいさな物語

その夏、私は友人とふたり、町はずれの小さな神社で開かれる夏祭りに出かけた。屋台が並び、浴衣姿の人波がざわめく。けれど私たちの目的は、毎年この祭りにだけ現れるという“幻の夜店”だった。

「今年こそ、見つけたいね」

そう言って、友人の茜は私の手を引く。金魚すくい、りんご飴、焼きそば、見慣れた夜店の列。その端に、いつもなら見かけない細い路地がぽっかりと口を開けていた。

路地の先は薄暗く、ほのかに線香の香りがする。不安と好奇心が入り混じる中、私たちはおそるおそる歩を進めた。曲がり角の先に、ぽつんと小さな灯りが見える。

赤い提灯に「金魚すくい」と書かれたその店は、屋台というより、木でできた古い縁台のようだった。

「やっと、見つけた……!」

茜がささやく。

店の奥には、年老いた女が座っていた。白髪に赤い帯、しわくちゃの笑顔。女は静かに私たちを見つめている。

「いらっしゃい、金魚すくいはお好きかい?」

低く湿った声で問われ、私と茜は顔を見合わせた。

「やってみます」

茜がそう言うと、女はひとつだけ残ったポイ(紙の網)を手渡してくれた。

「これで、金魚を一匹だけ、すくいなさい」

「一匹だけ?」

「そう、一匹だけ。もしふたりですくいたいのなら、ふたりで同じ金魚を選ぶこと」

金魚鉢の水面には、赤や黒、白の金魚がゆっくり泳いでいる。その奥に、不思議な青白い金魚が一匹だけ、光るように漂っていた。

「変わった金魚……」

私は思わずつぶやく。

「せっかくだから、あれをすくおうよ!」

茜が勢いよく網を水に入れる。けれど青白い金魚はするりとかわし、ポイの紙はみるみるうちに破れてしまった。

「あ……」

「もう一度だけ、やってみる?」

女がまた新しいポイを差し出す。今度は私が受け取った。

「ただし、今度は約束をひとつ守ること。この金魚をすくったら——絶対に、夜が明ける前に家に帰ること」

妙な約束だったが、私はうなずき、今度は私が網を手に取った。茜と一緒に、息を合わせて青白い金魚をすくう。網は破れなかった。ふたりの手のひらの上で、金魚は小さく震えた。

「やった……!」

女はうれしそうに目を細める。

「おめでとう。その金魚は、ふたりの約束のしるしだよ。さあ、急いで。夜明けまでに、必ず家へ帰りなさい」

金魚は眼の前でふわりと2匹に増えた。それを小さな袋に分けて入れてもらう。不思議なことに、袋の水はほのかに青白く光っていた。

「本当に綺麗だね……」

「でも、なんか少し怖い」

茜がそう言ったとき、不意に祭囃子の音が遠くなる。

急に心細くなって、私たちはもと来た道を急いだ。だが、なぜか祭りの賑わいが遠ざかるばかりで、周囲はどんどん暗く、静かになっていく。

「あれ? さっきまでこんなに遠かった?」

「急がないと……」

まだ暗くなったばかりのはずなのに、空がほんのり白み始めている。

焦って走り、ようやく見覚えのある場所に出たとき、私たちは息を切らしていた。

金魚袋の中をのぞくと、あの青白い金魚がじっとこちらを見ている。

「約束を守らないとね……」

私は声を上ずらせてそうつぶやいた。守らないととんでもないことになると、なぜか知っていた。茜も顔を蒼白にして家路を急いでいた。

何かが後ろをつけてきているような気がしたのだ。

私も茜もそれに気づいていて、家に帰るまで、言葉を交わさず、黙々と歩いた。

翌朝、茜から電話がかかってきた。「あの金魚、今朝見たらいなくなってた」
私も同じだった。袋の水は空っぽで、底に青い鱗が一枚だけ残っていた。

その夜、私は夢を見た。

暗い水の中で、あの青白い金魚が、こちらを見つめていた。目が、人間のようだった。

朝、目覚めると、鱗がもう一枚、机の上に落ちていた。

あれから毎年、夏祭りが近づくと、私は不思議な焦燥と恐怖に駆られる。夜店の灯り、遠ざかる囃子、誰かが囁くような声。

約束を破ったら何が起こるのか——その答えは、きっともうすぐやってくる気がしてならない。

ただ一つ、今も思う。約束とは、決して破ってはならない契約のようなものだったのだ。今年はまだ、私も茜も無事だが、いつまで無事でいられるのかは、正直わからない。

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