「ねえ、“オットイア”って知ってる?」
友人の紗織が、砂糖を入れたコーヒーを混ぜながら不意に言った。
主婦たちの集まりの中、ざわつくスーパーのフードコート。涼しい木曜日の午後、いちばん空気がゆるむ時間帯。
「夫嫌って書いて、“オットイア”」
初めて聞いたその言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「何それ、夫が嫌いってこと? そんなの珍しくもないじゃない」
「ちがうの。嫌いになるように仕向けてくる妖怪のことなんだって」
紗織はいたって真面目な顔だった。
「昔から各地にある噂らしいよ。夫が家にいるだけで息が詰まる、声がするだけで頭が痛くなる。それが本人の問題じゃなくて、“オットイア”の仕業なんだって」
正直、信じられなかった。
けれど、家に帰って夫の足音を聞いたとき、ほんの一瞬、心の奥にざらりとした何かが走った。
夫は悪い人ではない。まじめに働いて帰りは遅い。疲れているだろうに、休日は掃除機をかけてくれる。けれど、何かが……こう……気になるのだ。例えば、何気ないひとこと。
「夕飯、また煮物? なんかさ、もっとシャレたもんとか食いたいな」
何その言い方。別に怒ってもない、命令でもない。でも、毎日少しずつたまってくる何か。
彼の咳、笑い方、鼻をすする音。ひとつひとつが、耳の内側に貼りついて、ざらざらと神経を逆撫でする。
私はそれを、「疲れ」のせいだと思っていた。
けれど、ある夜――
リビングのソファに寝転ぶ夫の背中から、白い糸くずのようなものが垂れているのを見つけた。
翌日、それを紗織に話すと、彼女は小声で言った。
「それ、“抜け糸”かも」
「なにそれ」
「オットイアが棲みついた家には、抜け糸が現れるんだって。オットイアが成長して脱皮した印らしいよ」
紗織はネットで見つけたという“資料”のスクショをいくつか送ってきた。
そのうちの一つに、こう書かれていた。
――オットイアは、家庭において生まれる。人のネガティブな感情を好み、それを助長させる分泌物を出す。また、脱皮を繰り返すことによって成長する。
読んでいると気持ち悪くなってきた。家の中に虫のようなものがいるということ?
――その夜。
夫がリモコンを探しながら言った。
「なあ、いつもここに置くことにしようって、二人で言ってたよな?」
その「言ってたよな?」の言い方が、気に障った。
確かに夫が言うことが正しい。私が忘れっぽいのも事実。でも、その口調が、「お前のせいだよな?」と聞こえた。
その瞬間、夫の背中から“抜け糸”が、はらりと落ちた。また、成長している。
その週末。私は古い団地に住む親戚のおばさんを訪ねた。霊感があると噂される人で、「結婚生活に違和感を感じたら相談に来なさい」と言われていた。
その人は私の話を静かに聞いたあと、言った。
「なるほど。語られることで力を得る虫だわね」
「――それはどういう?」
「オットイアは『嫌だな』と思うたびに強くなるようだわ。それを祓うのはとても簡単。でもまた別のモノに憑かれることになるかもしれない。あなたはとても素直だから。今回はゆっくりとその虫を落としましょう」
何を言っているのかよくわからなかったが、やはり虫がついているらしい。私はぞっとして体を震わせた。
「今日からあなたがやるべきことは、オットイアに餌を与えないこと。『嫌だ』と思ったら、太いミミズがどんどん成長していく姿を想像しなさい」
私は帰宅してから試してみた。
夫の発言に、イラッときたら太いミミズが喜んで群がってくる様子を想像した。それからイライラしないために、夫の発言を好意的に取るように工夫した。
「また煮物? もうちょっと垢抜けた感じのがいいなあ」
私の料理が垢抜けないと言いたいのか。イラッとしたが、ここは堪える。
「どういうメニューがいいの?」
「え? あ、あのさ……」
なぜか夫は困ったような、照れているような不思議な反応をする。
「前にたまに作ってたじゃん。なんか、あれ、チーズの。最近作ってないし、そういうのでもいいんじゃないかなって」
「あ、ドリア?」
「まぁ、そういう感じだったかな?」
もしかして「ドリアが食べたい」と言うのが恥ずかしかったのか。
そういえば、いつだったか、時代劇に影響されて「やっぱり日本男児は毎日和食だよな」と、言い出したことがあったので、あまり作らなくなったのだ。その発言を取り消すのが、気まずくて、煮物を否定していたのか。
「私の煮物がまずいのかと思った」
「え? ごめん。そんなつもりは全然なくて、いや、その。ごめん!」
夫は平謝りに謝った。
数日後――これまで頻繁に現れていた抜け糸を見なくなった。変化は急だった。
ある夜。妙に気になって、寝る前に「オットイア」で検索してみた。
画面に現れたのは、古生物図鑑のサイト。「カンブリア紀の奇妙な生物、オットイア。海底に棲み、触手を伸ばして獲物を捕らえ……」
続いて、「ネット上で、家庭で不仲を起こす妖怪、虫、とされるオットイアの噂は近年の創作、またはデマ情報である」とも。
デマ?
スマホを見つめながら、私は静かに笑ってしまった。私も、紗織も、くだらない噂に翻弄されていただけだったのだ。
親戚のおばさんがゆっくりと虫を落とすと言った意味もわかった。自分で気づいて、自分で軌道修正することができた。すぐになんでも信じ込んでしまう私にはいい薬になった気がする。
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