#246 オットイアの棲む家

ちいさな物語

「ねえ、“オットイア”って知ってる?」

友人の紗織が、砂糖を入れたコーヒーを混ぜながら不意に言った。

主婦たちの集まりの中、ざわつくスーパーのフードコート。涼しい木曜日の午後、いちばん空気がゆるむ時間帯。

「夫嫌って書いて、“オットイア”」

初めて聞いたその言葉に、私は思わず笑ってしまった。

「何それ、夫が嫌いってこと? そんなの珍しくもないじゃない」

「ちがうの。嫌いになるように仕向けてくる妖怪のことなんだって」

紗織はいたって真面目な顔だった。

「昔から各地にある噂らしいよ。夫が家にいるだけで息が詰まる、声がするだけで頭が痛くなる。それが本人の問題じゃなくて、“オットイア”の仕業なんだって」

正直、信じられなかった。

けれど、家に帰って夫の足音を聞いたとき、ほんの一瞬、心の奥にざらりとした何かが走った。

夫は悪い人ではない。まじめに働いて帰りは遅い。疲れているだろうに、休日は掃除機をかけてくれる。けれど、何かが……こう……気になるのだ。例えば、何気ないひとこと。

「夕飯、また煮物? なんかさ、もっとシャレたもんとか食いたいな」

何その言い方。別に怒ってもない、命令でもない。でも、毎日少しずつたまってくる何か。

彼の咳、笑い方、鼻をすする音。ひとつひとつが、耳の内側に貼りついて、ざらざらと神経を逆撫でする。

私はそれを、「疲れ」のせいだと思っていた。

けれど、ある夜――

リビングのソファに寝転ぶ夫の背中から、白い糸くずのようなものが垂れているのを見つけた。

翌日、それを紗織に話すと、彼女は小声で言った。

「それ、“抜け糸”かも」

「なにそれ」

「オットイアが棲みついた家には、抜け糸が現れるんだって。オットイアが成長して脱皮した印らしいよ」

紗織はネットで見つけたという“資料”のスクショをいくつか送ってきた。

そのうちの一つに、こう書かれていた。

――オットイアは、家庭において生まれる。人のネガティブな感情を好み、それを助長させる分泌物を出す。また、脱皮を繰り返すことによって成長する。

読んでいると気持ち悪くなってきた。家の中に虫のようなものがいるということ?

――その夜。

夫がリモコンを探しながら言った。

「なあ、いつもここに置くことにしようって、二人で言ってたよな?」

その「言ってたよな?」の言い方が、気に障った。

確かに夫が言うことが正しい。私が忘れっぽいのも事実。でも、その口調が、「お前のせいだよな?」と聞こえた。

その瞬間、夫の背中から“抜け糸”が、はらりと落ちた。また、成長している。

その週末。私は古い団地に住む親戚のおばさんを訪ねた。霊感があると噂される人で、「結婚生活に違和感を感じたら相談に来なさい」と言われていた。

その人は私の話を静かに聞いたあと、言った。

「なるほど。語られることで力を得る虫だわね」

「――それはどういう?」

「オットイアは『嫌だな』と思うたびに強くなるようだわ。それを祓うのはとても簡単。でもまた別のモノに憑かれることになるかもしれない。あなたはとても素直だから。今回はゆっくりとその虫を落としましょう」

何を言っているのかよくわからなかったが、やはり虫がついているらしい。私はぞっとして体を震わせた。

「今日からあなたがやるべきことは、オットイアに餌を与えないこと。『嫌だ』と思ったら、太いミミズがどんどん成長していく姿を想像しなさい」

私は帰宅してから試してみた。

夫の発言に、イラッときたら太いミミズが喜んで群がってくる様子を想像した。それからイライラしないために、夫の発言を好意的に取るように工夫した。

「また煮物? もうちょっと垢抜けた感じのがいいなあ」

私の料理が垢抜けないと言いたいのか。イラッとしたが、ここは堪える。

「どういうメニューがいいの?」

「え? あ、あのさ……」

なぜか夫は困ったような、照れているような不思議な反応をする。

「前にたまに作ってたじゃん。なんか、あれ、チーズの。最近作ってないし、そういうのでもいいんじゃないかなって」

「あ、ドリア?」

「まぁ、そういう感じだったかな?」

もしかして「ドリアが食べたい」と言うのが恥ずかしかったのか。

そういえば、いつだったか、時代劇に影響されて「やっぱり日本男児は毎日和食だよな」と、言い出したことがあったので、あまり作らなくなったのだ。その発言を取り消すのが、気まずくて、煮物を否定していたのか。

「私の煮物がまずいのかと思った」

「え? ごめん。そんなつもりは全然なくて、いや、その。ごめん!」

夫は平謝りに謝った。

数日後――これまで頻繁に現れていた抜け糸を見なくなった。変化は急だった。

ある夜。妙に気になって、寝る前に「オットイア」で検索してみた。

画面に現れたのは、古生物図鑑のサイト。「カンブリア紀の奇妙な生物、オットイア。海底に棲み、触手を伸ばして獲物を捕らえ……」

続いて、「ネット上で、家庭で不仲を起こす妖怪、虫、とされるオットイアの噂は近年の創作、またはデマ情報である」とも。

デマ?

スマホを見つめながら、私は静かに笑ってしまった。私も、紗織も、くだらない噂に翻弄されていただけだったのだ。

親戚のおばさんがゆっくりと虫を落とすと言った意味もわかった。自分で気づいて、自分で軌道修正することができた。すぐになんでも信じ込んでしまう私にはいい薬になった気がする。

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