夜のマンションには謎の「ボタン全部押す係」が現れるようだ。最上階から地下まで、全部の階を律儀に巡る彼(あるいは彼女)は、一体何者なのか? そして、住人たちはなぜか誰も驚かない――。
「また全部押されてる……」
エレベーターの扉が開くと、見慣れた数字が全て青白く光っていた。いつものことだ。私は軽く溜め息をつく。15階の自宅に帰り着くにはいつもどおり時間がかかりそうだ。今日もまた、全部の階に止まる羽目になるのだから。
「お疲れ様です」
8階で、カンガルーの着ぐるみを着たおじさんが乗ってきた。手には特大サイズのプリン。
「あの……それ、どこで売ってるんですか?」
見たことがないくらいの大きさだ。普通のコンビニにあるサイズじゃない。
「地下一階ですよ。でも17階に寄らないと買えません」
どういう理屈なのだろうか。
「17階は誰も住んでないはずですが」
「それが、プリンの精霊が住んでるんですよ。今晩はきなこ味が特売で……あっ、次は9階ですね」
いつもどおりわけがわからないが、これがいつもどおりなのだ。気にしていてはこのマンションに暮らすことはできない。
着ぐるみのおじさんは礼儀正しく9階で降りた。誰も乗ってこない。プリンの甘い香りだけが残る。
10階で止まると、今度はスーツ姿の小学生が現れた。名札には「部長」と書いてある。
「こんばんは。今日も会議ですか?」
「はい。僕、毎日役員会議があって忙しいんです。ところで、明日はエレベーター早押し大会がありますから、お忘れなく」
「そんなイベント、聞いたことないですが……」
「でもあるんです。去年はサボテンさんが優勝でした」
小学生部長は11階で降りた。やはり誰も乗ってこない。だが「サボテンさん」が頭にひっかかる。そんな住民、いただろうか。うん。またわけがわからない。
12階で止まると、いきなりエレベーターにカレーの香りが充満した。誰も乗ってこない。でも、床に「本日のカレー・辛口」と書かれた付箋が落ちている。さっきはなかった。12階で現れたのだろうか。
13階。天井からタコが一匹ぶら下がっている。触手でボタンを器用に押す。
「あ、いつも通り、ボタンは全部押してありますよ」
「こんばんは」
無視される。
「あ、はい。こんばんは……って、あなたは?」
「ボタン全部押す係のサポーターです」
「サポーター……。え? このボタン、毎回誰が全部押してるんですか?」
「ボタンを押すだけで世界が平和になるのです。あと、14階の犬に伝言をお願いします」
また無視された。
「伝言ですか。なんて?」
「“今日のクッキーはバター多めで”」
タコは14階に向かって伸びていき、次の瞬間消えた。
14階で扉が開くと、黒い蝶ネクタイをつけた柴犬がエレベーターに乗ってきた。後ろ足で立っている。首から「管理人代理」の札をぶら下げている。
もしかしてこの犬がボタンを全部押しているのか?
「13階のタコさんから伝言です。“今日のクッキーはバター多めで”」
「承知しました。バター多めですね。なお、明日のゴミ出しは“土星”ですのでよろしく」
「土星!?」
「はい、宇宙ゴミ回収日なので」
柴犬管理人代理は15階で降りていった。
ついに15階、自宅前だ。が、扉が開いても自分の部屋ではなく、見慣れぬ大広間に出た。真っ白なテーブルに、色とりどりのボタンが山盛り乗っている。
「やあ、お待ちしていました。私がボタン全部押す係です」
こ、こいつが!
ボタン全部押す係を名乗る男が、蝶ネクタイとサングラス姿で立っていた。手には巨大なリモコン。
「ええ、わたしが“ボタン全部押す係”です。でも、今夜は特別な夜。ボタンを全部押すだけでなく、“全部の押されたボタンを解除する係”も必要なのです」
「それは……」
「あなたです」
テーブルの脇に赤いスイッチが一つだけある。
「このボタンを押せば、全てのボタンがリセットされます。でも、押すと明日は“全階段強制登り”の日になるかもしれません」
「まさか、解除されたボタンは1日押せなくなるという意味ですか」
「そうです」
最悪だ。
「……それは困ります。たぶんみんな困ります」
「ですよね。でも、ボタンを押さなければ、毎日全部の階でエレベーターが止まります」
「うーん……」
「さあ、どちらを選びますか?」
私はしばらく悩み、さらに悩み、うんうんと唸った。そしてそこから記憶がなくなった。
瞬間、目の前がぐるぐる回転し、気がつくと元のエレベーターの中。扉が開き、自宅前だった。
「おかえりなさいませ」
目の前には、蝶ネクタイの柴犬管理人代理。プリン(カレー味)という容器を持っている。背後にはタコが、触手でクッキーを食べていた。
「今日は全部押されてないですよ」
「あれ? ほんとだ……」
15階より上の階のボタンはついていたはずなのだが、一つも光っていなかった。
「まさか、私、リセットボタンを押しましたか」
柴犬とタコはそっと顔を見合わせ、意味ありげにこちらを見る。
「さあねえ」
「どうでしたかねぇ」
私はそっと自宅のドアを開け、家に入った。
だが、次の日の朝、階段には「全階段強制登りデー!」という旗が飾られていた。
やはり押していたらしい。
ため息をつきながら私は、カンガルーの着ぐるみおじさんと一緒に階段を登ることにした。彼はまたプリンの精霊の話を嬉々として聞かせてくれる。
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