#249 五月闇の雨宿り

ちいさな物語

梅雨入りしたばかりの夜は、やわらかいはずの町の灯りさえ、空に溶けていく。

空は厚い雲でふさがれ、月も星も気配すらない。空からは細く長い雨がしきりに降りそそぎ、町全体が水のヴェールで覆われているようだ。

この時期の夜を、「五月闇」と呼ぶらしい。ただの夜よりも、ずっと深い。ただの雨よりも、ずっと静か。世界が眠ってしまったような、しじまの時間。

中学一年生の美緒(みお)は、うまく眠れずにいた。小さなアパートの窓を少しだけ開けて、外の空気と雨音をこっそり部屋に招き入れる。母親はもう眠っている。テレビの明かりだけが、薄青く部屋を照らしている。

「雨の夜って、すごくさみしい感じがする」

ふと、そんなことを思った。

その夜、美緒はふらりと家を出た。母親にばれたら怒られるだろうが、ほんの少しだけのことだ。それにこの小さな町は周りは知り合いばかり。何かあったらどこへでも駆け込める。

ただ雨と闇の中を歩く。しとしと降る雨、アスファルトに跳ねる雨粒。小さな水たまりの上に、彼女の影が揺れている。

気がつけば、町はずれの古い祠の前に立っていた。いつからか誰も寄りつかなくなった、苔むした小さな社(やしろ)。石段も滑りやすく、鳥居の朱色もすっかり褪せている。

「こんな雨の夜に、誰もいないよね……」

そう思いながらも、美緒は祠の軒下で雨宿りをした。どこか、ここだけ時間の流れが違うような気がする。雨音は遠くなり、かわりに、祠の奥からかすかな気配がした。

「こんばんは」

声に、思わずびくりとする。振り向くと、そこには不思議な影が座っていた。人のような、そうでないような。薄暗がりの中で、白く細い指先だけが、ゆっくりと美緒を招いた。

「雨の夜は、さびしいだろう?」

影は、どこか懐かしい声で語りかけてくる。

「昔はよく、子どもたちが遊びに来たんだ。雨宿りしながら、怖い話をしたり、歌をうたったりね。でも最近は誰も来ない。君は、どうしてここに?」

美緒は自分でもわからないまま、ぽつぽつと話しはじめた。

「うまく眠れなくて……。夜になると、いろんなことを思い出しちゃうんです。友だちのこととか、学校のこととか。なんだか、全部がうまくいかなくて」

影は静かにうなずくと、祠の奥から小さな鈴を取り出した。

「これを鳴らしてごらん。五月闇の夜、雨音にまぎれて、きっと『だれか』が答えてくれる」

美緒は半信半疑で鈴を鳴らす。

――ちりん。

その音は、雨の音にまぎれ、やがて町じゅうを包みこんだ。すると、不思議なことに、遠くのどこかから返事のような鈴の音が聞こえた。

「同じ音……だれか、いるの?」

美緒が問うと、影は優しく微笑んだ。

「五月闇は、みんなの寂しさや、眠れぬ夜の思い出を集めるんだよ。そして、次の季節が来るまで、それを静かに預かるのさ」

「預かって、どうするの?」

「大切に保管しておく。いらないもののように思うかもしれないけれど、実はとても大切なものなんだよ。でも持っているとつらいだろう? だから、預かるのさ」

いつのまにか雨は小降りになり、空がほんの少しだけ明るくなっている。

「またいつでも、さびしい雨の夜にはここにおいで」

立ち上がると、美緒の身体はふっと軽くなっていた。ふと気がつけば、彼女は家の前にいる。ポケットには、小さな鈴がひとつ。

その晩は、久しぶりによく眠れた。

季節が進み、梅雨が明けても、美緒は時おり鈴を手にして思い出す。

――あの夜、深い五月闇に包まれて、だれかと語り合ったことを。

そしてまた暗い雨の夜が訪れる。

雨音にまぎれて、今年も町のどこかで、静かな奇跡が起きているのかもしれない。

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