#250 そ

ちいさな物語

近所のコンビニが、今朝から「そ」の位置になっていた。

何が「そ」なのか最初は誰にもわからなかった。ただ、朝、コンビニに行ってみると、入り口の自動ドアの前で、店員が全員、右手を耳の横に、左足を半歩前に出し、無言で「そ」としか言いようのないポーズを決めて立っていた。

「おはようございます」と声をかけると、全員、そろって「そ」と言う。

レジ横には「本日より『そ』を推奨しております」とだけ書かれた張り紙があった。下には細かい文字で「そ以外のご用件にはお応えできません」と付け足されている。

ぼくはパンを選びながら、ふと冷蔵ケースを見ると、サンドイッチの陳列がすべて「そ」の形になっている。どの角度から見ても、「そ」。しかも、なぜかどれも消費期限が「そ曜日」と表示されている。カップ麺の「お湯を注ぐ位置」にも「そ」と記されていた。

あまりに「そ」が多すぎて、脳がふわふわしてくる。

勇気を出してレジに並ぶと、先頭のサラリーマンが、財布を開けて「すみません、ポイントカードを忘れ……」と言いかけたところで、店員が即座に「そ」と答えた。

サラリーマンは一瞬たじろぐが、「……そ」と小声で返し、そのままレジを通過していった。

次の女性客は、「公共料金の支払いを……」と言いかけるも、やはり店員に「そ」と遮られる。女性も「そ」とつぶやきながら支払い機の前で深呼吸し、謎のポーズを決めて立ち去った。

いよいよ自分の番が来たので、緊張しながらパンとコーヒーを差し出す。店員は「そ」のポーズのまま動かない。ぼくも思わず「そ」と言ってしまう。すると、まるで約束された儀式のように、店員は商品をスキャンし「そ」と告げた。

会計画面も「そ円」とだけ表示されていた。

なんとなく財布から「そ」っぽい硬貨(実際には50円玉)を出してみる。店員は満足そうに「そ」とうなずき、レシートを差し出した。レシートにも「そ」とだけ印刷されている。

出口に向かうと、入り口の「そ」ポーズの店員たちが、ぼくに向かって静かに親指を立てた。「そ」の気分が全身を包む。

家に帰り、パンの袋を開けると、中にパンはなく「そ」と書かれた小さな紙が一枚入っていた。コーヒーカップの中身も消えていて、「そ」とだけ底に印刷されている。ぼくは自分が「そ」になりかけていることを感じて少し泣いた。

昼すぎ、再びコンビニに行くと、店内では「そ」音頭が流れていた。BGMに合わせて店員たちが踊っている。レジ台は片付けられ、代わりに「そ」の形の空気が手渡される。持ち帰った「その空気」は一瞬で消えてしまい、何も残らない。

町の人々も徐々に「そ」になっていく。バスの時刻表は「そ時そ分」、郵便ポストには「そ」しか入れられなくなった。交差点では信号がすべて「そ」色に光っている。

ある日、学校の先生が黒板に大きく「そ」と書いた。それだけで全員が納得した顔をする。授業も、試験も、「そ」の一点で全てが評価されるようになった。

テレビをつけても、ニュースキャスターが「そ」とだけ話す番組ばかり。天気予報も「本日はそ」と言い切って終わる。

世界中が「そ」になったのだ。

ぼくはある晩、布団の中で考えた。「そ」って何だったんだろう。意味があるのか、ないのか、そもそも疑問を持っていいのかもわからない。ただ、眠る前にもう一度だけ、静かに「そ」と呟いてみた。

そのとき、部屋の隅で小さく「そ」と鳴いたのは、ずっと前から飼っていた金魚だった気がする。でも、その翌朝には金魚鉢の水も、すっかり「そ」の色に澄み切っていた。

今日もコンビニの前で、店員たちが「そ」のポーズで待機している。

ぼくもそろそろ、「そ」の位置に立つ頃だと思う。

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